ピピンの寄進とは?教皇領・カール大帝との関係を解説

ピピンの寄進とは、8世紀半ばにフランク王ピピン3世が、ランゴバルド人から得たイタリア中部の地域をローマ教皇に与えた出来事です。

世界史では、ピピンの寄進はローマ教皇領の基礎を作った出来事として重要です。また、フランク王国とローマ教皇の同盟を強め、のちのカール大帝の戴冠へつながる前提にもなりました。

この記事では、ピピンの寄進がなぜ起きたのか、何を寄進したのか、教皇領との関係、フランク王国とローマ教皇の同盟、世界史上の意味をわかりやすく整理します。

もくじ

まず一言でいうと

ピピンの寄進は、ピピン3世がランゴバルド人から奪ったラヴェンナ周辺などの土地をローマ教皇へ与え、教皇領成立の基礎を作った出来事です。

項目内容
出来事ピピンの寄進
時期754〜756年頃
中心人物ピピン3世、教皇ステファヌス2世
相手勢力ランゴバルド王国
寄進された地域ラヴェンナ総督府旧領など、イタリア中部の地域
重要性ローマ教皇領の基礎となった
大きな流れフランク王国と教皇の同盟 → 教皇領 → カール大帝の戴冠

なぜ起きたのか

ピピンの寄進が起きた背景には、ローマ教皇がランゴバルド王国の圧力を受けていたことがあります。

当時、イタリアではランゴバルド人が勢力を広げ、ローマ周辺にも圧力をかけていました。もともとイタリア中部には、東ローマ帝国の支配下にあったラヴェンナ総督府の地域がありましたが、その支配は弱まっていました。

ローマ教皇は、東ローマ帝国だけでは十分に守られない状況になり、西ヨーロッパで力を伸ばしていたフランク王国へ支援を求めました。

関係した人物

ピピンの寄進には、フランク王国、ローマ教皇、ランゴバルド王国が関係します。

人物・勢力役割
ピピン3世フランク王国の王。ローマ教皇を支援した
教皇ステファヌス2世ランゴバルド人の圧力を受け、ピピン3世に助けを求めた
ランゴバルド王国イタリアで勢力を広げ、ローマ教皇を脅かした
東ローマ帝国もともとラヴェンナ周辺に支配権を持っていたが、イタリア支配が弱まっていた

何を寄進したのか

ピピン3世が寄進したのは、ランゴバルド人から奪ったイタリア中部の地域です。

よく説明されるのは、ラヴェンナ総督府旧領やその周辺地域です。ラヴェンナは、東ローマ帝国がイタリアを支配する拠点だった重要都市でした。

ポイントは、ピピン3世がこの地域を東ローマ帝国へ返したのではなく、ローマ教皇へ与えたことです。これによって、教皇が一定の領土を支配する根拠が生まれました。

教皇領との関係

ピピンの寄進は、教皇領の基礎になりました。

教皇はもともと宗教的な指導者でした。しかし、寄進によってイタリア中部の土地を支配する根拠を得たことで、宗教的権威だけでなく、領土を持つ政治的支配者としての性格も強めました。

教皇領はその後、中世から近代まで長く続き、1870年にイタリア王国へ併合されるまで存在しました。

比較寄進前寄進後
教皇の立場ローマの宗教的指導者宗教的指導者であると同時に、領土支配者としての性格を強める
政治的基盤不安定。東ローマ帝国やランゴバルド人の影響を受けるフランク王国の支援と寄進地を背景に自立性を高める
世界史上の意味ローマ教会の権威はあるが、軍事的保護は不安定教皇領の成立につながり、中世ヨーロッパ政治に影響する

フランク王国と教皇の同盟

ピピンの寄進は、フランク王国とローマ教皇の同盟を強めました。

ピピン3世は、751年にメロヴィング朝を退けてカロリング朝を開いた人物です。この王朝交代には、ローマ教皇の支持が大きな意味を持ちました。

一方、教皇はランゴバルド人から守ってくれる軍事的保護者を必要としていました。つまり、ピピン3世は教皇から王権の正当性を得て、教皇はピピン3世から軍事的保護と領土を得たのです。

カール大帝の戴冠との関係

ピピンの寄進は、のちのカール大帝の戴冠につながる重要な前提です。

ピピン3世の子がカール大帝です。カール大帝はフランク王国をさらに拡大し、800年にローマで教皇レオ3世から皇帝として戴冠されました。

ピピン3世の時代に作られた「フランク王国が教皇を守り、教皇がフランク王権を宗教的に支える」という関係が、カール大帝の戴冠でさらに大きな意味を持つようになります。

東ローマ帝国との関係

ピピンの寄進は、東ローマ帝国との関係でも重要です。

ラヴェンナ周辺は、もともと東ローマ帝国のイタリア支配の拠点でした。しかし、8世紀にはランゴバルド人の進出や東ローマ帝国の影響力低下によって、現地支配は弱まっていました。

ピピン3世がこの地域を東ローマ帝国へ返さず、ローマ教皇へ与えたことは、イタリア中部で教皇とフランク王国の結びつきが強まることを意味しました。これは、東ローマ帝国の西方に対する影響力が弱まっていく流れとも関係します。

「コンスタンティヌスの寄進」との違い

ピピンの寄進と混同しやすいものに、「コンスタンティヌスの寄進」があります。

コンスタンティヌスの寄進は、ローマ皇帝コンスタンティヌスが教皇へ西方支配権を与えたとする文書です。しかし、これは後世に作られた偽文書であることが明らかになっています。

一方、ピピンの寄進は、8世紀のフランク王ピピン3世とローマ教皇の関係のなかで起きた実際の歴史的出来事として扱われます。

比較ピピンの寄進コンスタンティヌスの寄進
時期8世紀半ば文書上は4世紀とされるが、実際には後世の偽文書
人物ピピン3世コンスタンティヌス帝とされる
内容イタリア中部の地域を教皇へ与えた教皇へ広大な支配権を与えたと主張する文書
世界史上の扱い教皇領成立の基礎として重要中世教皇権の正当化に使われた偽文書として重要

世界史上の意味

ピピンの寄進の意味は、三つに整理できます。

意味内容
教皇領の基礎教皇が領土を支配する根拠となり、教皇領成立につながった
フランク王国と教皇の同盟ピピン3世の王権と教皇の安全保障が結びついた
西ヨーロッパ秩序の変化東ローマ帝国ではなく、フランク王国がローマ教皇の保護者として台頭した
カール大帝の戴冠への前提800年の皇帝戴冠につながるフランク王国と教皇の関係を作った

年表で見るピピンの寄進

出来事
751年ピピン3世がメロヴィング朝のキルデリク3世を退け、フランク王となる
752年ステファヌス2世がローマ教皇となる
754年教皇ステファヌス2世がフランク王国へ赴き、ピピン3世とその子らを塗油する
754年ピピン3世がランゴバルド人に対してイタリア遠征を行う
756年ピピン3世が再びイタリアへ進み、ランゴバルド人を退ける
756年頃ピピンの寄進により、ラヴェンナ総督府旧領などが教皇へ与えられる
768年ピピン3世が死去し、子のカールとカールマンが王国を分ける
774年カール大帝がランゴバルド王国を征服する
800年カール大帝がローマで皇帝として戴冠される

世界史での覚え方

ピピンの寄進は、「ピピン3世が教皇へ土地を与えた」「教皇領の基礎」「カール大帝の戴冠への前提」とセットで覚えると整理しやすいです。

覚えるポイント内容
誰がピピン3世
誰へローマ教皇
何をラヴェンナ総督府旧領など、イタリア中部の地域
なぜ教皇をランゴバルド人から守り、教皇との同盟を強めるため
結果教皇領の基礎ができた
次の流れカール大帝の戴冠へつながる

関連用語

用語関係
ピピン3世ピピンの寄進を行ったフランク王
フランク王国ピピン3世が支配した王国
カロリング朝ピピン3世が開いた王朝
ローマ教皇ピピン3世から土地を受け、教皇領の基礎を得た
ローマ教皇領ピピンの寄進を基礎として形成された教皇の領土
ランゴバルド王国イタリアで勢力を広げ、教皇を圧迫した王国
東ローマ帝国ラヴェンナ周辺に旧来の支配権を持っていた帝国
カール大帝ピピン3世の子。フランク王国を拡大し、800年に皇帝として戴冠された
レオ3世カール大帝に冠を授けたローマ教皇

よくある質問

ピピンの寄進とは何ですか?

ピピン3世が、ランゴバルド人から得たイタリア中部の地域をローマ教皇へ与えた出来事です。教皇領の基礎になりました。

ピピンの寄進はなぜ起きましたか?

ランゴバルド人がローマ教皇を圧迫し、教皇がフランク王国のピピン3世に保護を求めたためです。ピピン3世にとっても、教皇との同盟は王権の正当性を高める意味がありました。

ピピンの寄進で何ができましたか?

ローマ教皇領の基礎ができました。教皇が宗教的指導者であるだけでなく、領土を持つ政治的支配者としての性格を強めました。

ピピンの寄進とカール大帝の戴冠はどう関係しますか?

ピピンの寄進によってフランク王国と教皇の同盟が強まりました。その関係が、のちにカール大帝が800年に教皇から皇帝として戴冠される前提になりました。

コンスタンティヌスの寄進とは違いますか?

違います。ピピンの寄進は8世紀の実際の出来事として扱われますが、コンスタンティヌスの寄進は後世に作られた偽文書です。

確認問題

問題答え
ピピンの寄進を行ったフランク王は誰ですか?ピピン3世
ピピン3世が土地を与えた相手は誰ですか?ローマ教皇
ピピンの寄進が基礎を作った領土は何ですか?ローマ教皇領
ピピン3世が戦ったイタリアの勢力は何ですか?ランゴバルド王国
ピピンの寄進と混同しやすい偽文書は何ですか?コンスタンティヌスの寄進

参考文献・参考資料

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