東フランク王国とは?後のドイツのもと・ヴェルダン条約を解説

東フランク王国とは、843年のヴェルダン条約でフランク王国が三分割されたとき、ルートヴィヒ2世が得た東側の王国です。世界史では、後のドイツ王国・神聖ローマ帝国につながる、後のドイツのもととなった王国として覚えます。

ただし、843年に現在のドイツが成立したわけではありません。東フランク王国は、ライン川東方のバイエルン・フランケン・ザクセン・シュヴァーベン・テューリンゲンなどを中心とする中世の王国で、そこから長い時間をかけてドイツ王国や神聖ローマ帝国へつながっていきました。

この記事では、東フランク王国の意味、いつ成立したか、ヴェルダン条約との関係、後のドイツ・神聖ローマ帝国とのつながりをわかりやすく整理します。

もくじ

まず一言でいうと

東フランク王国は、843年のヴェルダン条約で生まれた、後のドイツ方面につながる王国です。

「843年のヴェルダン条約で誕生した国で、後のドイツのもととなったのは何?」と聞かれたら、答えは東フランク王国です。

東フランク王国の基本情報

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項目内容
名称東フランク王国
英語表記East Francia、Eastern Frankish Kingdom
成立843年、ヴェルダン条約
初期の王ルートヴィヒ2世、ドイツ人王
中心地域ライン川東方、バイエルン、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、テューリンゲンなど
前身フランク王国、カロリング朝の帝国
後の関係ドイツ王国、神聖ローマ帝国へつながる
世界史での意味フランク王国の分裂後、後のドイツ方面の政治的基盤になった王国

ブリタニカのドイツ史の解説では、843年のヴェルダン条約でルートヴィヒ2世が東の王国を受け取り、その領域にはライン川東方のバイエルン、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、テューリンゲンなどが含まれたと説明されています。

ヴェルダン条約で誕生した王国

東フランク王国は、フランク王国の分裂から生まれました。

カール大帝の時代、フランク王国は西ヨーロッパの広い地域を支配しました。しかし、カール大帝の子ルートヴィヒ1世敬虔王の死後、息子たちの間で後継争いが起こります。

その争いを終わらせるため、843年にヴェルダン条約が結ばれました。この条約でフランク王国は、西フランク王国・中部フランク王国・東フランク王国の三つに分けられます。

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王国支配者後の関係
西フランク王国シャルル2世後のフランス方面につながる
中部フランク王国ロタール1世ロタリンギア・ブルグント・イタリア方面へ分裂しやすい
東フランク王国ルートヴィヒ2世後のドイツ王国・神聖ローマ帝国につながる

このため、東フランク王国はヴェルダン条約とセットで覚える必要があります。

後のドイツのもととなったのは東フランク王国

世界史の問題でよく問われるのが、「ヴェルダン条約で誕生した国で、後のドイツのもととなったのは何か」という形です。

答えは、東フランク王国です。

ブリタニカは、ヴェルダン条約が中世後期のフランスとドイツの大まかな輪郭を示したと説明しています。また、東側の地域はドイツとしての性格を強め、西側はフランスとして現れていったと説明されています。

ただし、ここでいう「後のドイツのもと」は、現在のドイツ連邦共和国がすぐに成立したという意味ではありません。東フランク王国から、ドイツ王国、ザクセン朝、神聖ローマ帝国へとつながる中世の政治的流れを指します。

領域はどこだったのか

東フランク王国の中心は、ライン川の東側でした。具体的には、バイエルン、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、テューリンゲンなどが重要です。

現在の国名で単純に言い換えると、ドイツ方面が中心です。ただし、中世の王国は現在の国境線とは異なります。王国の支配は、部族大公領、伯領、司教領、修道院領などが複雑に重なる形で成り立っていました。

そのため、「東フランク王国=現在のドイツ」とそのまま置き換えるのではなく、「後のドイツ方面につながる中世の王国」と理解するのが正確です。

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地域名位置づけ
バイエルンルートヴィヒ2世が早くから支配した南東部の重要地域
フランケンライン川中流域を中心とする地域
ザクセン北方の重要地域。のちにザクセン朝が台頭
シュヴァーベン南西部の重要地域
テューリンゲン中部の重要地域
ロタリンギア東西フランクの間で争点になった中間地域

ルートヴィヒ2世と東フランク王国

東フランク王国の最初の中心人物は、ルートヴィヒ2世です。一般に「ドイツ人王」と呼ばれます。

ルートヴィヒ2世は、ルートヴィヒ1世敬虔王の子で、843年のヴェルダン条約によって東フランク王国を得ました。ブリタニカのドイツ史では、ルートヴィヒ2世が東フランク王国の多様な地域をまとめ、周辺のスラヴ人やヴァイキングへの対応、カロリング世界での地位確保に取り組んだことが説明されています。

ルートヴィヒ2世の時代、東フランク王国はまだ「ドイツ国家」ではありませんでした。しかし、東側の地域がまとまりを強めていくうえで、重要な時期でした。

メルセン条約との関係

東フランク王国を理解するうえで、870年のメルセン条約も重要です。

843年のヴェルダン条約では、フランク王国が西・中・東に三分割されました。その後、中部フランク王国の北部にあたるロタリンギアをめぐり、東フランク王国と西フランク王国の間で再編が進みます。

870年のメルセン条約では、ロタリンギアが東西フランクで分割されました。ブリタニカのドイツ史でも、870年までにルートヴィヒ2世の支配領域は西方でのちにアルザスやロレーヌとして知られる地域を含むほど広がったと説明されています。

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比較ヴェルダン条約メルセン条約
843年870年
東フランクとの関係東フランク王国が成立東フランクがロタリンギア方面へ影響を拡大
内容フランク王国を西・中・東に三分割ロタリンギアを東西フランクで再分割
覚え方東フランク誕生中間地帯の再編

カロリング朝の断絶とドイツ王国への流れ

東フランク王国は、はじめカロリング朝の王によって統治されました。しかし、911年に東フランク系のカロリング朝が断絶すると、王位はフランケン公コンラート1世へ移ります。

その後、919年にザクセン公ハインリヒ1世が王に選ばれ、ザクセン朝が始まります。ブリタニカは、ハインリヒ1世をドイツ王でありザクセン朝の創始者として説明し、東フランク、つまりドイツの軍を強化した人物と位置づけています。

この段階になると、東フランク王国はしだいに「ドイツ王国」としての性格を強めていきます。つまり、東フランク王国はカロリング朝の一部として始まり、ザクセン朝の時代に後のドイツ王国へつながる性格を明確にしていきました。

神聖ローマ帝国との関係

東フランク王国は、のちのドイツ王国と神聖ローマ帝国にもつながります。特に重要なのが、ザクセン朝のオットー1世が962年に皇帝として戴冠された流れです。

ハインリヒ1世の子オットー1世は、936年にアーヘンで東フランク王として即位し、955年にレヒフェルトの戦いマジャール人に勝利しました。その後、962年にローマ教皇ヨハネス12世から皇帝として戴冠されます。

ブリタニカのザクセン朝の解説では、オットー1世が962年にローマで皇帝として戴冠され、ドイツ国民の神聖ローマ帝国を始めたと説明されています。ただし、東フランク王国がそのまま一瞬で神聖ローマ帝国になったというより、東フランク王国からドイツ王国、ザクセン朝、オットーの戴冠へと続く流れで理解するのが自然です。

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段階出来事意味
843年ヴェルダン条約東フランク王国が成立
911年東フランク系カロリング朝の断絶非カロリング系の王へ移行
919年ハインリヒ1世が王に選出ザクセン朝が始まる
936年オットー1世が王になる王権を強化
955年レヒフェルトの戦いマジャール人に勝利し権威を高める
962年オットー1世が皇帝戴冠神聖ローマ帝国へつながる

東フランク王国と西フランク王国の違い

東フランク王国は、西フランク王国と対で覚えると理解しやすいです。

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比較東フランク王国西フランク王国
成立843年、ヴェルダン条約843年、ヴェルダン条約
初期の王ルートヴィヒ2世シャルル2世
中心地域ライン川東方、ドイツ方面現在のフランス西部・中部方面
後の関係ドイツ王国、神聖ローマ帝国フランス王国
覚え方後のドイツのもと後のフランスのもと

ここでも注意点は同じです。843年の時点で現代のドイツやフランスが成立したわけではありません。西フランク・東フランクという分かれ方が、後のフランス方面・ドイツ方面の政治的分化につながったという意味です。

世界史上の意味

東フランク王国の世界史上の意味は、フランク王国の分裂後、後のドイツ方面の政治的基盤になったことです。

ヴェルダン条約によって東フランク王国が成立し、その後の王権・部族大公領・教会との関係の中で、ドイツ王国としての性格が強まっていきました。さらに、オットー1世の皇帝戴冠によって神聖ローマ帝国へつながります。

そのため、東フランク王国は「ドイツ史の出発点の一つ」として重要です。ただし、近代ドイツ国家とは別物なので、「中世の東フランク王国から、後のドイツ王国・神聖ローマ帝国へつながる」と段階的に理解することが大切です。

年表で見る東フランク王国

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出来事ポイント
800年カール大帝が皇帝戴冠フランク王国が西ヨーロッパの中心的勢力になる
814年カール大帝死去ルートヴィヒ1世が継承
840年ルートヴィヒ1世死去息子たちの内戦が本格化
843年ヴェルダン条約東フランク王国が成立
870年メルセン条約ロタリンギアを東西フランクで再分割
911年東フランク系カロリング朝断絶コンラート1世が王になる
919年ハインリヒ1世が王に選出ザクセン朝が始まる
936年オットー1世が王になる王権強化の時代へ
955年レヒフェルトの戦いマジャール人を破る
962年オットーの戴冠神聖ローマ帝国へつながる

世界史での覚え方

東フランク王国は、次の形で覚えると整理しやすいです。

「843年ヴェルダン条約、東フランク王国は後のドイツのもと」

ヴェルダン条約の三分割とセットで覚えるなら、次の対応です。

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王国後の関係
西フランク王国後のフランス方面
中部フランク王国ロタリンギア・イタリア方面へ再編
東フランク王国後のドイツ方面

関連用語

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用語関係
ヴェルダン条約843年に東フランク王国を生んだ条約
メルセン条約870年にロタリンギアを東西フランクで再分割した条約
フランク王国東フランク王国の前身
フランク人フランク王国を築いたゲルマン系の人々
カロリング朝フランク王国・東フランク王国初期を支配した王朝
カール大帝フランク王国を拡大した皇帝。東フランク王国はその帝国分裂から生まれた
ルートヴィヒ2世東フランク王国を得た王。ドイツ人王とも呼ばれる
ハインリヒ1世919年に王となったザクセン朝の創始者
オットー1世962年に皇帝戴冠し、神聖ローマ帝国へつながる人物
オットーの戴冠東フランク王権が皇帝権へつながる重要事件

よくある質問

東フランク王国とは何ですか?

843年のヴェルダン条約でフランク王国が三分割されたとき、ルートヴィヒ2世が得た東側の王国です。後のドイツ王国や神聖ローマ帝国につながります。

843年のヴェルダン条約で誕生した国で、後のドイツのもととなったのは何ですか?

東フランク王国です。ヴェルダン条約でルートヴィヒ2世が得た王国で、後のドイツ方面の政治的基盤になりました。

東フランク王国は現在のドイツですか?

現在のドイツそのものではありません。東フランク王国は中世の王国で、後のドイツ王国や神聖ローマ帝国につながる前段階として理解します。

東フランク王国の初期の王は誰ですか?

ルートヴィヒ2世です。ドイツ人王とも呼ばれ、843年のヴェルダン条約で東フランク王国を得ました。

東フランク王国と神聖ローマ帝国の関係は何ですか?

東フランク王国は、後のドイツ王国と神聖ローマ帝国につながる政治的基盤です。919年のザクセン朝、962年のオットー1世の皇帝戴冠を経て、神聖ローマ帝国へつながっていきます。

確認問題

最後に、東フランク王国のポイントを確認しましょう。

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問題答え
東フランク王国が成立した年は?843年
東フランク王国が成立した条約は?ヴェルダン条約
東フランク王国を得た王は?ルートヴィヒ2世
東フランク王国は後の何につながる?ドイツ王国・神聖ローマ帝国
東フランク王国と対になる、後のフランス方面につながる王国は?西フランク王国
870年にロタリンギアを再分割した条約は?メルセン条約
919年に王となりザクセン朝を始めた人物は?ハインリヒ1世
962年に皇帝として戴冠された人物は?オットー1世

参考文献・参考資料

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