カロリング朝とは?いつまで・カール大帝と分裂を解説

カロリング朝とは、メロヴィング朝に代わってフランク王国を支配した王朝です。世界史では、ピピン3世の即位、カール大帝、800年の皇帝戴冠、カロリング朝ルネサンス、843年のヴェルダン条約を押さえる王朝です。

メロヴィング朝との違いは、簡単にいうと、メロヴィング朝はクローヴィスを代表とする初期フランク王国の王朝、カロリング朝は宮宰から実権を握って王位についたピピン3世・カール大帝の王朝です。

この記事では、カロリング朝がいつからいつまで続いたのか、なぜ成立したのか、カール大帝の何が重要なのか、なぜ分裂したのかをわかりやすく整理します。

もくじ

まず一言でいうと

カロリング朝は、フランク王国を西ヨーロッパ最大級の勢力へ広げ、カール大帝の皇帝戴冠によって中世ヨーロッパの枠組みに大きな影響を与えた王朝です。

「カロリング朝とは?」と聞かれたら、「ピピン3世がメロヴィング朝に代わって開き、カール大帝の時代に最盛期を迎え、843年のヴェルダン条約で分裂へ向かったフランク王国の王朝」と答えると整理しやすいです。

カロリング朝の基本情報

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項目内容
名称カロリング朝
英語表記Carolingian dynasty
地域フランク王国、西ヨーロッパ
時期751年ごろから887年ごろを大きな区切りとする
創始者ピピン3世
代表的人物カール・マルテル、ピピン3世、カール大帝
前の王朝メロヴィング朝
重要事件751年のピピン3世即位、800年のカール大帝戴冠、843年のヴェルダン条約
世界史での意味フランク王国とローマ教会の結びつき、中世西ヨーロッパの政治・文化形成

ブリタニカは、カロリング朝を西ヨーロッパを支配したフランク人貴族の家系で、750〜887年の王朝として説明しています。一方、世界史学習では、ピピン3世が751年に王となったことを成立の目印として覚えるのが一般的です。

いつからいつまでか

カロリング朝は、基本的には751年のピピン3世即位から、887年にカール3世が退位して王朝の統一的支配が崩れるまでを大きな区切りとして理解します。

ただし、地域によって王朝の終わり方は違います。西フランクでは、その後もカロリング家の王が断続的に復位し、987年にカペー朝へ移るまで名前が残ります。そのため、学習では「フランク帝国全体のカロリング朝は887年ごろまで、西フランクでは987年まで断続的に続く」と分けて考えると正確です。

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区切り意味
成立751年ピピン3世が最後のメロヴィング王キルデリク3世を退け、王となる
最盛期768〜814年カール大帝が広大なフランク王国を支配
皇帝戴冠800年カール大帝がローマ皇帝として戴冠される
分裂843年ヴェルダン条約で帝国が三分割される
統一的支配の崩れ887年カール3世の退位により、王朝の統一的権威が大きく弱まる
西フランクでの終わり987年カペー朝成立により、西フランクでカロリング家の王統が終わる

メロヴィング朝との違い

カロリング朝を理解するには、前の王朝であるメロヴィング朝との違いが重要です。

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比較メロヴィング朝カロリング朝
位置づけ初期フランク王国の王朝メロヴィング朝に代わったフランク王国の王朝
代表的人物クローヴィス、ダゴベルト1世、キルデリク3世カール・マルテル、ピピン3世、カール大帝
成立の特徴フランク人の王権から発展宮宰として実権を握った家系が王位を得る
宗教的意味クローヴィスの改宗でカトリック教会と結びつくピピン3世・カール大帝の時代に教皇との関係がさらに強まる
世界史上の焦点フランク王国の成立と発展西ヨーロッパ統合、皇帝戴冠、フランク帝国の分裂
覚え方クローヴィスの王朝カール大帝の王朝

ブリタニカの解説では、カロリング家はもともとアウストラシアの宮宰として力を持ち、ピピン3世が751年に最後のメロヴィング王を退けて王になりました。つまり、実権を持っていた宮宰の家系が、名目上の王位も獲得したのがカロリング朝です。

成立の背景

カロリング朝の成立には、メロヴィング朝後期の王権弱体化と、宮宰の台頭が関係しています。

宮宰とは、もともと王宮の管理を担う役職でした。しかしメロヴィング朝後期には、宮宰が政治や軍事の実権を握るようになります。この宮宰の家系が、後のカロリング家です。

カール・マルテルは宮宰としてフランク王国の実権を握り、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでも知られます。その子ピピン3世が、王位を得てカロリング朝を始めました。

ピピン3世と教皇の支持

カロリング朝の直接の創始者は、ピピン3世です。

ピピン3世はカール・マルテルの子で、宮宰としてフランク王国の実権を握りました。その後、教皇ザカリアスの支持を得て、751年に最後のメロヴィング王キルデリク3世を廃し、自ら王となります。

ブリタニカは、ピピン3世が751年に王となり、754年には教皇ステファヌス2世から改めて塗油を受けたことを説明しています。これにより、カロリング朝は王権と教皇権の結びつきを強めました。

カール・マルテルとの関係

カール・マルテルは、カロリング朝成立の前段階を作った人物です。

彼自身は王になりませんでしたが、宮宰としてフランク王国を実質的に支配しました。732年にはイスラーム勢力をトゥール・ポワティエ間の戦いで退けた人物としても知られます。

カール・マルテルの権力基盤を受け継いだピピン3世が王位を得たため、カール・マルテルはカロリング朝の成立を準備した人物といえます。

カール大帝の時代

カロリング朝の最盛期は、カール大帝の時代です。

カール大帝はピピン3世の子で、768年に王となりました。弟カールマンの死後、フランク王国を単独で支配し、ガリア、ドイツ方面、イタリア方面へ勢力を広げました。

ブリタニカは、カール大帝がほぼガリア全域、ドイツ、イタリアへフランクの力を広げ、東ヨーロッパの諸勢力にも影響を及ぼしたと説明しています。彼の支配は、カロリング朝を西ヨーロッパ最大級の勢力にしました。

800年の皇帝戴冠

カール大帝の最重要事件が、800年の皇帝戴冠です。

800年のクリスマス、ローマで教皇レオ3世がカール大帝に皇帝冠を授けました。これにより、西ヨーロッパで「ローマ皇帝」の理念が復活し、ローマ教会とフランク王国の結びつきが強まりました。

この戴冠は、後の神聖ローマ帝国を理解するうえでも重要です。ただし、カール大帝の時代にそのまま神聖ローマ帝国が完成したわけではなく、中世の皇帝権と教皇権の関係を考える出発点として重要です。

カロリング朝ルネサンス

カール大帝の時代には、カロリング朝ルネサンスと呼ばれる文化的復興も進みました。

これは、古典学習、ラテン語教育、聖職者教育、写本文化などを整えようとする動きです。ブリタニカは、カロリング朝ルネサンスを8世紀半ばから9世紀にかけて西ヨーロッパのカロリング朝支配者のもとで進められた古典学習の復興として説明しています。

代表的な人物としては、イングランド出身の学者アルクィンが知られます。カール大帝は彼らを宮廷に招き、教育や写本の整備を進めました。

なぜ分裂したのか

カロリング朝が分裂した大きな理由は、フランク王国で王の死後に領土を息子たちで分ける慣習があったためです。

カール大帝の死後、息子ルートヴィヒ1世が帝国を継ぎました。しかしルートヴィヒ1世の死後、息子たちの間で争いが起こります。その結果、843年のヴェルダン条約で帝国は三つに分けられました。

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分割先支配者後の流れ
西フランク王国シャルル2世後のフランス方面
東フランク王国ルートヴィヒ2世後のドイツ方面
中部フランク王国ロタール1世イタリア・ロタリンギア方面を含む中間地帯

ヴェルダン条約は、フランク王国の統一が崩れ、後のフランス・ドイツ・イタリア方面の政治的分化へつながる重要な条約です。

その後のカロリング朝

843年以後、カロリング朝の支配は西フランク・東フランク・中部フランクに分かれて進みます。

東フランクでは、カロリング家の断絶後、ザクセン朝が台頭し、後の神聖ローマ帝国へつながります。西フランクでは、カロリング家の王が断続的に続きますが、987年にカペー朝が成立して王統が移ります。

つまり、カロリング朝は「カール大帝で終わった王朝」ではありません。カール大帝の死後も続きますが、統一帝国としては分裂し、地域ごとに異なる歴史へ進んでいきました。

世界史上の意味

カロリング朝の世界史上の意味は、フランク王国を通じて中世西ヨーロッパの政治・宗教・文化の枠組みを作ったことです。

ピピン3世の時代には教皇との結びつきが強まり、カール大帝の時代には西ヨーロッパの広い地域が一つの支配のもとに置かれました。さらに800年の皇帝戴冠により、ローマ帝国の継承という理念が西ヨーロッパで強調されます。

その後、843年のヴェルダン条約で王国が分かれ、東フランク王国西フランク王国の流れが生まれました。カロリング朝は、フランス・ドイツ・イタリア方面の中世史を理解する入口です。

年表で見るカロリング朝

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出来事ポイント
732年トゥール・ポワティエ間の戦いカール・マルテルの権威が高まる
741年カール・マルテル死去ピピン3世らが勢力を受け継ぐ
751年ピピン3世が王となるカロリング朝成立の目印
754年教皇ステファヌス2世がピピン3世を改めて塗油王権と教皇の結びつきが強まる
768年カール大帝が王となるカロリング朝の最盛期へ
774年カール大帝がランゴバルド王国を征服イタリア方面へ勢力拡大
800年カール大帝が皇帝として戴冠西ヨーロッパで皇帝権が復活
814年カール大帝死去ルートヴィヒ1世が継承
843年ヴェルダン条約帝国が三分割される
870年メルセン条約中部フランクの一部が西・東フランクに分けられる
887年カール3世退位統一的なカロリング権威が崩れる
987年カペー朝成立西フランクでカロリング家の王統が終わる

世界史での覚え方

カロリング朝は、次の流れで覚えると整理しやすいです。

「宮宰の家系 → ピピン3世が王になる → カール大帝が最盛期 → 800年皇帝戴冠 → 843年ヴェルダン条約で分裂」

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覚えるポイント内容
成立751年、ピピン3世
前の王朝メロヴィング朝
最重要人物カール大帝
宗教教皇・ローマ教会との結びつき
文化カロリング朝ルネサンス
分裂843年、ヴェルダン条約

関連用語

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用語関係
フランク人カロリング朝を生んだフランク王国の中心勢力
フランク王国カロリング朝が支配した王国
メロヴィング朝カロリング朝の前の王朝
カール・マルテル宮宰として実権を握り、カロリング朝成立の前提を作った人物
ピピン3世カロリング朝を開いたフランク王
カール大帝カロリング朝の最盛期を築いた王
カロリング朝ルネサンスカール大帝期を中心とする文化的復興
ヴェルダン条約843年にフランク王国を三分割した条約
東フランク王国ヴェルダン条約で生まれ、後のドイツ方面につながる王国
西フランク王国ヴェルダン条約で生まれ、後のフランス方面につながる王国

よくある質問

カロリング朝とは何ですか?

メロヴィング朝に代わってフランク王国を支配した王朝です。ピピン3世が王となって始まり、カール大帝の時代に最盛期を迎えました。

カロリング朝はいつからいつまでですか?

成立は751年のピピン3世即位が目印です。統一的な支配は887年ごろまでを大きな区切りとし、西フランクでは987年のカペー朝成立まで断続的に続きました。

カロリング朝とメロヴィング朝の違いは何ですか?

メロヴィング朝はクローヴィスを代表とする初期フランク王国の王朝です。カロリング朝は、宮宰として実権を握った家系が王位を得て成立した王朝で、カール大帝を出しました。

カロリング朝で最も重要な人物は誰ですか?

最も重要な人物はカール大帝です。フランク王国を大きく広げ、800年に皇帝として戴冠され、カロリング朝ルネサンスも進めました。

カロリング朝はなぜ分裂しましたか?

王の死後に領土を息子たちで分けるフランク王国の慣習と、ルートヴィヒ1世の子たちの争いが大きな理由です。843年のヴェルダン条約で帝国は三分割されました。

確認問題

最後に、カロリング朝のポイントを確認しましょう。

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問題答え
カロリング朝を開いた人物は?ピピン3世
カロリング朝の前の王朝は?メロヴィング朝
カロリング朝の最盛期を築いた王は?カール大帝
カール大帝が皇帝として戴冠された年は?800年
カール大帝期の文化的復興を何という?カロリング朝ルネサンス
フランク王国を三分割した843年の条約は?ヴェルダン条約
ヴェルダン条約で後のドイツ方面につながる王国は?東フランク王国
西フランクで987年に成立した王朝は?カペー朝

参考文献・参考資料

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