衛正斥邪とは、朝鮮王朝末期に広がった思想・運動で、「正しいものを守り、邪なものを退ける」という意味です。ここでいう「正」とは主に朱子学的な秩序であり、「邪」とされたものは、初めは天主教や西洋思想、のちには開化政策や日本の侵略勢力まで広がりました。
衛正斥邪は、単なる「外国嫌い」ではありません。朝鮮社会の支配的な価値観だった朱子学を守ろうとする保守思想であり、同時に19世紀後半の西洋列強・日本の圧力に対する危機意識から生まれた抵抗思想でもありました。
この記事では、衛正斥邪の意味、背景、大院君の攘夷政策、開化派との対立、義兵闘争へのつながりを、世界史の流れで整理します。
まず一言でいうと
衛正斥邪は、「朱子学的な正統秩序を守り、天主教・西洋文明・日本勢力などを排斥しようとした朝鮮末期の思想・運動」です。19世紀後半、朝鮮が開国と近代化を迫られるなかで、開化派と対立し、のちに反日義兵運動の思想的背景にもなりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 用語 | 衛正斥邪 |
| 読み方 | えいせいせきじゃ。韓国語ではウィジョンチョクサ |
| 意味 | 正しいものを守り、邪なものを退ける |
| 守るもの | 朱子学、儒教的身分秩序、朝鮮王朝の正統 |
| 退けるもの | 天主教、西洋思想、西洋文物、開化政策、日本勢力など |
| 中心時期 | 19世紀後半 |
| 関係する人物 | 李恒老、奇正鎮、崔益鉉、大院君など |
| 世界史上の意味 | 東アジアで近代化と伝統秩序が衝突した事例 |
衛正斥邪の意味
衛正斥邪は、漢字で分けると「衛正」と「斥邪」です。「衛正」は正しいものを守ること、「斥邪」は邪なものを退けることを意味します。朝鮮末期の文脈では、正しいものとは朱子学的な政治・社会秩序であり、邪なものとは天主教や西洋思想と見なされました。
韓国民族文化大百科事典は、衛正斥邪思想を、朱子学的儒教思想を守り、天主教や西洋文明を危険な思想として排斥したものとして説明しています。朝鮮社会では、祖先祭祀や忠孝を重視する儒教秩序が政治と社会の基盤だったため、天主教はその秩序を揺さぶるものと見なされました。
ただし、衛正斥邪の「邪」の中身は時代によって変化しました。初めは天主教・西洋思想への反発が中心でしたが、19世紀後半に日本の圧力が強まると、開国政策や日本の侵略勢力も排斥対象に含まれるようになりました。
背景
衛正斥邪が広がった背景には、朝鮮王朝が直面した二つの圧力があります。一つは天主教や西洋思想の流入、もう一つは西洋列強と日本による開国圧力です。
朝鮮では18世紀末から天主教が知識人や民衆の間に広まりました。しかし天主教は、祖先祭祀を否定するものと見なされ、儒教的秩序を重視する朝鮮政府や儒学者から強く警戒されました。1801年、1839年、1866年などに弾圧が起こります。
一方、19世紀にはアヘン戦争以後、西洋列強が東アジアへ進出しました。朝鮮もフランス、アメリカ、日本などの圧力を受けるようになります。日本自身も開国後に近代国家化し、朝鮮へ進出していきました。
天主教排斥との関係
衛正斥邪の初期の中心は、天主教、つまりカトリックへの排斥でした。ローマ=カトリック教会の教えは、朝鮮の朱子学的秩序から見ると、祖先祭祀や儒教倫理を揺さぶる危険な思想と見なされました。
ブリタニカは、朝鮮で1801年、1839年、1866年に迫害が起こり、学者出身の改宗者が処刑されたり棄教を迫られたりし、外国人宣教師も発見されて処刑されたと説明しています。1866年の大規模弾圧は、フランス艦隊の来航、つまり丙寅洋擾につながりました。
このように、衛正斥邪は宗教問題だけではなく、外交問題とも結びつきました。天主教を受け入れることは、西洋勢力の介入を招くと考えられたためです。
大院君と攘夷政策
衛正斥邪と深く関わる人物が、大院君です。大院君は高宗の父で、1860年代に実権を握りました。彼は王権強化と国内改革を進める一方で、外国勢力や天主教に対して強硬な姿勢を取りました。
ブリタニカは、1864年に高宗が即位すると父の大院君が摂政となり、強い排外主義者として政治を動かしたと説明しています。1866年には朝鮮でキリスト教徒への全国的迫害が起こり、フランス・アメリカの攻撃を退けたとも説明されています。
大院君の政策は、朝鮮の独立を守ろうとする面を持ちました。しかし同時に、西洋の技術や制度を取り入れる機会を狭め、のちの開国・近代化をめぐる対立を激しくする要因にもなりました。
開化派との対立
1876年の日朝修好条規によって、朝鮮は日本に開国を迫られました。これ以後、朝鮮国内では、外国の制度や技術を取り入れて富国強兵を進めるべきだとする開化派と、朱子学的秩序を守り外来思想を退ける衛正斥邪派の対立が強まりました。
ブリタニカは、1876年の江華条約が、朝鮮を日本と対等な独立国として定めた条約だったと説明しています。ただし、韓国の歴史教育資料では、この条約は朝鮮初の近代条約である一方、日本に領事裁判権や海岸測量権などを認めた不平等条約として説明されています。
韓国国史編纂委員会の「우리역사넷」は、1881年に金弘集が日本から『朝鮮策略』を持ち帰ると、儒学者たちが開化政策に反対し、朱子学体制を守ろうとする衛正斥邪運動を激しく展開したと説明しています。
| 立場 | 主張 | 代表的な関心 |
|---|---|---|
| 衛正斥邪派 | 朱子学的秩序を守り、天主教・西洋・日本の影響を退ける | 伝統秩序、防衛、攘夷、反開化 |
| 開化派 | 西洋や日本の制度・技術を取り入れ、富国強兵を進める | 近代軍制、外交、教育、制度改革 |
| 大院君系保守派 | 王権強化と排外政策を重視する | 国内統制、攘夷、反開化 |
| 民氏政権系 | 清との関係を利用しながら政権維持を図る | 対清関係、宮廷政治 |
主な展開
衛正斥邪運動は、時期によって対象と性格が変わりました。天主教排斥から始まり、開国反対、開化政策批判、反日義兵へとつながっていきます。
| 時期 | 主な対象 | 特徴 |
|---|---|---|
| 18世紀末〜19世紀前半 | 天主教・西学 | 朱子学的秩序を守るため、天主教を邪学と見なす |
| 1860年代 | 天主教・西洋勢力 | 大院君の排外政策、丙寅迫害、フランス・アメリカとの衝突 |
| 1876年以後 | 開国政策・日本 | 日朝修好条規後、開化政策への反発が強まる |
| 1881年ごろ | 『朝鮮策略』と開化政策 | 儒学者による上疏運動が広がる |
| 1895年以後 | 日本勢力・親日開化政策 | 乙未事変、断髪令をきっかけに義兵運動へ接続 |
| 1905年以後 | 日本の保護国化 | 第二次日韓協約への反発と義兵闘争の拡大 |
韓国民族文化大百科事典は、衛正斥邪論が、当初は天主教や西洋文明を退ける思想運動だったが、のちに西洋列強と日本の侵略が露骨になると、民族の自尊と自主を守る救国思想へ発展したと説明しています。
義兵闘争へのつながり
衛正斥邪は、のちの義兵闘争に大きな影響を与えました。特に1895年の乙未事変と断髪令、1905年の第二次日韓協約は、儒生や地方士族を中心とする義兵蜂起のきっかけになります。
韓国民族文化大百科事典は、奇宇万が1895年の乙未事変と断髪令をきっかけに義兵を起こしたこと、宋秉璿が乙巳条約に反対したことなどを、衛正斥邪思想の実践として説明しています。
つまり衛正斥邪は、はじめは宗教・思想の排斥として現れましたが、朝鮮末期には日本の侵略に対する抵抗思想としても機能しました。この点で、単なる保守思想としてだけでなく、反帝国主義的な側面も持つようになります。
東学との違い
衛正斥邪とよく比較されるのが東学です。どちらも西学や西洋勢力への危機意識を背景に持ちますが、性格はかなり違います。
| 比較 | 衛正斥邪 | 東学 |
|---|---|---|
| 中心層 | 儒学者、士族、保守的知識人 | 農民、民衆、宗教信徒 |
| 守るもの | 朱子学的秩序、王朝秩序 | 民衆救済、東洋的宗教思想 |
| 西洋への態度 | 天主教・西洋文明を邪として排斥 | 西学に対抗する東の学として成立 |
| 政治的方向 | 保守的・反開化的要素が強い | 社会改革・民衆運動へ展開 |
| 関連事件 | 斥邪上疏、義兵運動 | 甲午農民戦争 |
衛正斥邪は、既存の朱子学秩序を守ろうとする思想でした。一方、東学は西学に対抗する名称を持ちながらも、民衆宗教として広がり、社会改革要求と結びつきました。
世界史上の意味
衛正斥邪の世界史上の意味は、東アジアの伝統国家が近代世界の圧力にどう対応したかを示す点にあります。19世紀の朝鮮は、清、日本、西洋列強の力が交差する場所にありました。
- 朝鮮王朝の朱子学的秩序を守ろうとする思想だった
- 天主教や西洋思想への排斥から始まった
- 開国後は、開化政策や日本勢力への反発と結びついた
- 近代化を遅らせた面と、民族的自尊を支えた面の両方がある
- 義兵闘争を通じて反日抵抗の思想的背景にもなった
同じ時代、日本は開国後に近代化を進め、朝鮮は開国をめぐって激しい内部対立を抱えました。衛正斥邪を理解すると、朝鮮の開国、日朝修好条規、日清戦争、大韓帝国、韓国併合までの流れが見えやすくなります。
年表で見る衛正斥邪
| 年 | できごと | ポイント |
|---|---|---|
| 1801年 | 辛酉迫害 | 朝鮮で天主教弾圧が起こる |
| 1839年 | 己亥迫害 | 天主教徒・宣教師への弾圧 |
| 1864年 | 高宗即位、大院君が実権を握る | 排外政策が強まる |
| 1866年 | 丙寅迫害・丙寅洋擾 | 天主教弾圧とフランス艦隊の来航 |
| 1871年 | 辛未洋擾 | アメリカ艦隊との衝突 |
| 1876年 | 日朝修好条規 | 朝鮮が日本に開国 |
| 1881年 | 『朝鮮策略』をめぐる反発 | 衛正斥邪運動が激しくなる |
| 1882年 | 壬午軍乱 | 開化政策・新式軍への不満が噴出 |
| 1894年 | 甲午農民戦争・日清戦争 | 朝鮮をめぐる国際対立が激化 |
| 1895年 | 乙未事変・断髪令 | 義兵運動のきっかけ |
| 1905年 | 第二次日韓協約 | 反日義兵運動が拡大 |
| 1910年 | 韓国併合 | 日本の植民地支配へ |
関連用語
| 用語 | 意味 | 関連 |
|---|---|---|
| 大院君 | 高宗の父で、1860年代に実権を握った政治家 | 排外政策と天主教弾圧 |
| 日朝修好条規 | 1876年に日本と朝鮮が結んだ条約 | 開国と衛正斥邪派の反発 |
| 朝鮮の開国 | 19世紀後半に朝鮮が外国との条約関係に入った流れ | 衛正斥邪と開化の対立 |
| 東学 | 西学に対抗して生まれた朝鮮の民衆宗教 | 西洋への危機意識の別方向 |
| 甲午農民戦争 | 1894年に起きた東学系農民の大規模蜂起 | 朝鮮社会の危機と日清戦争 |
| 義兵闘争 | 日本の侵略に抵抗した朝鮮の武装運動 | 衛正斥邪思想の実践化 |
| 大韓帝国 | 1897〜1910年の韓国の国家 | 朝鮮末期から植民地化への流れ |
| 朝鮮総督府 | 韓国併合後に日本が置いた植民地統治機関 | 衛正斥邪後の朝鮮支配 |
覚え方
衛正斥邪は、「正を衛る、邪を斥ける」と覚えると意味がつかみやすいです。正は朱子学的秩序、邪は天主教・西洋・日本勢力と、時代によって広がっていきました。
- 意味 = 正しいものを守り、邪なものを退ける
- 正 = 朱子学、儒教秩序、朝鮮王朝の正統
- 邪 = 天主教、西洋思想、西洋文物、日本勢力
- 対立軸 = 衛正斥邪派と開化派
- 展開 = 天主教排斥から義兵運動へ
よくある質問
衛正斥邪とは何ですか?
衛正斥邪とは、朝鮮王朝末期に広がった、朱子学的な正統秩序を守り、天主教・西洋文明・日本勢力などを排斥しようとする思想・運動です。
衛正斥邪の意味は何ですか?
「衛正」は正しいものを守ること、「斥邪」は邪なものを退けることです。朝鮮末期には、朱子学を正、天主教・西洋思想・開化政策などを邪と見なしました。
衛正斥邪と開化派はどう違いますか?
衛正斥邪派は朱子学的秩序を守り外来思想を排斥しようとしました。開化派は西洋や日本の制度・技術を取り入れて、朝鮮を近代化しようとしました。
衛正斥邪は義兵闘争と関係がありますか?
関係があります。19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本の侵略が強まると、衛正斥邪思想は反日義兵運動の思想的背景の一つになりました。
確認問題
- 衛正斥邪の「正」とは主に何を指すか。
- 衛正斥邪の初期に「邪」とされた宗教は何か。
- 大院君の時代に起きた1866年の天主教弾圧を何というか。
- 衛正斥邪派と対立した、近代化を進めようとした勢力を何というか。
- 衛正斥邪思想が思想的背景の一つとなった反日武装運動は何か。
解答例:朱子学的秩序、天主教、丙寅迫害、開化派、義兵闘争。
