理想を掲げつつ苦しむ国民?ソビエトを救った新経済政策の真実

理想を掲げつつ苦しむ国民?ソビエトを救った新経済政策の真実

私は、理想を掲げて革命を起こし、その国の指導者になった者が、実際にはその理想からかけ離れた政策をとることが多いと感じます。

たとえばフランス革命でも、『政治を国民の手に』と言いながら、結局は一部の貴族が権力を握る形に収まりました。

そして、特に『平等』や『飢えや貧しさのない社会』を謳う理想の旗印を掲げた時ほど、結果として国民に厳しい現実が待っている気がします。

この記事を読めば、ソビエト政権が導入した新経済政策がどんな政策で、なぜその導入が必要になったのか、その背景から実際の内容まで一連の流れを知ることができるでしょう。

理想と現実の狭間でソビエトがどのような選択をしたのか、ぜひその実態を読み進めてみてください。

もくじ

ソビエトという国の起源:ロシア革命と新たな時代の幕開け

ロシア革命が起きたのは、当時のロシアの人々が貧しさや不公平に耐えきれなくなったからです。

そのころ、ロシアは皇帝が全てを支配する国で、労働者や農民たちは苦しい生活を送っていました。
戦争も続いていて食べ物が足りず、物価も上がるばかり

戦地に行った兵士たちは次々に命を落とし、国の中は混乱していました。
そんな中で、「このままではダメだ」という気持ちが広がり、ついに民衆が立ち上がります。
これがロシア革命です。

革命によって皇帝の時代が終わり、新しい国を作ろうとする動きが始まります。

そして、民衆の支持を得て力をつけたのがボリシェヴィキと呼ばれるグループでした。
このグループを率いていたのが、労働者や農民の味方として知られるレーニンでした。

ボリシェヴィキとレーニンの理想

ボリシェヴィキという急進的な社会主義団体が、ロシア革命の中心にいました。

リーダーであるレーニンは、『平和、パン、土地』を掲げ、戦争に疲れた国民貧困に苦しむ人々の支持を得ました。

彼らの目指す社会は、労働者や農民が平等に暮らせる社会主義の理想を追求したものでした。

ソビエト誕生への道筋

ロシア革命の中心には、二つの大きな出来事がありました。
まず、1917年2月の二月革命で帝政が崩壊し、ロシアは臨時政府による新しい体制に移行します。

しかし、臨時政府は戦争を継続し、国民の生活は改善されませんでした。
そんな中で、レーニン率いるボリシェヴィキが『戦争を終わらせ、平等な社会を作ろう』と訴え、広く支持を集めます。

そして同年10月に十月革命が起き、ボリシェヴィキが臨時政府を倒して政権を掌握しました。

ボリシェヴィキは、全ての権力を『ソビエト』(評議会)に託し、労働者や農民が主体となる国を作ろうとします。
こうして、理想の平等社会を目指したソビエト国家が正式に誕生しました。

 

理想を打ち砕いた戦時共産主義:国民に強いた苦悩と混乱

戦時共産主義とは、ロシア革命後の厳しい状況の中で、ソビエト政権が取った緊急の経済政策でした。

第一次世界大戦と内戦で物資が不足しイギリスやフランスからも敵視され、周りに頼れる国がいない状態でした。

そこでレーニンは、『必要なものは全部国が管理する』という方針を決め、政府が食料や物資をすべて一括で取り仕切るようにしたのです。

つまり、国が『生産する物も、量も、すべて管理する』方針をとり、農民たちが育てた作物や物資は、ほぼすべて国に集められて戦争のために使われました

自由に売ったり買ったりすることも許されない、厳しい体制が敷かれたのです。

戦時共産主義がもたらした国内の混乱

戦時共産主義が始まると、政府が農民たちから強制的に作物を徴収し、自由に売ることができなくなりました。

農民は自分たちが育てた作物のほとんどを取り上げられ、手元に残るのはわずかな食料だけで、自分たちの生活もままならない状況に追い込まれたのです。

都市の労働者も、物資不足で生活が厳しくなり、国民全体が飢えと貧困に苦しむことになりました。

このように、政府が『必要な物をすべて管理する』という方針のもとで、食べ物や生活必需品まで取り上げられる事態が続き、国民は逆に厳しい生活を強いられることになりました。

この政策の長期化により、人々は次第に政府への不満を募らせていきます。

反発と反乱:農民たちの不満と反ボリシェヴィキ勢力の結成

特に農民たちは、自分たちが育てた作物をすべて取り上げられることに大きな不満を抱いていました。

その不満が爆発したのが、タンボフ反乱です。
1920年から1921年にかけて、タンボフ地方の農民たちが蜂起し、数万人が参加する大規模な反乱となりました。

この反乱の背景には、戦時共産主義による過酷な収奪があったのです。

また、農民以外にも、反ボリシェヴィキ勢力が結集し、ソビエト政権に対する不満が全国に広がっていきます。
各地で対立が深まり、国家全体が不安定な状況に陥りました。

内乱の勃発と国家の分裂危機

こうした反発や反乱が続き、ソビエトは本格的な内乱に突入します。
各地で反ボリシェヴィキ勢力(白軍)と赤軍(ボリシェヴィキ)との戦闘が勃発し、ソビエトは内外からの圧力で大きな分裂の危機に直面します。

戦時共産主義という厳しい政策は、国をまとめるどころか、分裂をさらに加速させる結果となってしまったのです。
『理想の国』への道は、現実の混乱の中で遠ざかっていくばかりでした。

民衆の機嫌取りか?新経済政策がもたらした一時的な安定

戦時共産主義によってソビエトは内戦には勝利したものの、国内の物資不足と反発の波は収まらず、民衆の不満は爆発寸前でした。

農民や労働者の反乱が相次ぐ中で、ソビエト政権は『一時的に資本主義を認めてでも国を落ち着かせなければならない』と考え、新経済政策(NEP)の導入に踏み切ります。

これは、完全な共産主義を貫くのではなく、民衆の不満を抑えるために一部の資本主義的な要素を取り入れた妥協の政策でした。

NEPとは?民衆の不満を抑えるための一時的な資本主義回帰

NEPの狙いは、民衆の反発を和らげるために物資不足と生活苦を少しでも改善することでした。

具体的には、農民たちが自分で育てた作物を市場で自由に売れるようにし、政府がすべてを管理するのではなく、市場経済の要素を一部認める形を取ったのです。

また、小規模な商業活動や軽工業も再び許可され、民間の経済活動が再開しました。

NEPは共産主義の理念からは外れた妥協策でしたが、民衆の不満を抑え、急場をしのぐために必要な施策だったのです。

NEPがもたらした影響と国内の安定

NEPにより、農業生産が回復し、都市でも物資の流通が活発化したことで、国民生活は少しずつ改善されていきました。

農民たちは収穫物を自由に売ることができ、生活に余裕が生まれ、都市部でも物資が手に入るようになりました。

これにより、長い混乱で疲れ切っていた国民に希望が戻り、反発も次第に鎮静化していきました。

NEPによって築かれた一時的な安定とソビエト政権の強化

NEPは、共産主義の原則を一時的に緩め、民衆の不満を和らげるために導入された政策でした。

ですが、これによりソビエト政権は国内の安定を確保し、統治の基盤を強化することができました

NEPによってソビエト政権は、反発が減少した状態での安定を一時的に取り戻すことができたのです。

まとめ

  • ソビエトという国の起源:ロシア革命と新たな時代の幕開け
  • 理想を打ち砕いた戦時共産主義:国民に強いた苦悩と混乱
  • 民衆の機嫌取りか?新経済政策がもたらした一時的な安定

私はこの記事を書きながら、『理想』を掲げることが必ずしも『国民の幸せ』に直結しないのではないか、と改めて感じました。

理想の旗のもとで革命が起こり、やがて指導者たちはその理想を裏切るような行動に出る。
それはレーニンの掲げた『平等な社会』の夢も例外ではありませんでした。

ソビエトが混乱の中でNEPを導入し、民衆の不満をなだめ、現実を立て直そうとしたのは、その矛盾の一つの表れでしょう。

理想と現実の狭間で揺れ動いたソビエト政権の姿から、国民が理想を託すことの難しさ、そして為政者たちが掲げるスローガンに潜む危うさが浮かび上がります。

読者の皆さんには、この記事を通してNEPの背景や意図を理解し、理想が現実にどう形を変えたのかを考えるきっかけにしていただければと思います。

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