ポーランド・ソヴィエト戦争とは?当時の両国の様子も詳しく解説!

1914年7月から1918年11月までの4年間続いた第一次世界大戦。
1917年にはアメリカが参戦し、協商国の勝利となり戦争は終わりを迎えます。

その過程でロシアではロシア革命が起こり、ソヴィエト・ロシアの労働者政権が現れ、各地で民族運動が激化し、ロシア帝国は消滅します。

世界中が混とんとした中で、東ヨーロッパの国々では国家統合のために、過激な民族主義が噴きあがったり独裁政権が勢いを増していくことに。

私の祖母も戦後の厳しい時代を生きた人でした。
いつも、自分の思い出話をしてくれるときはこの頃の事が多く、祖母にとっても生きていくのに一生懸命で激動の時代だったのかもしれません。

戦後の東ヨーロッパの状況は、日本以上に過酷だったのではないかと思います。
激しい領土の奪い合いで、各地で戦いが繰り広げられていました。

ポーランドではポーランド・ソヴィエト戦争が勃発。
ポーランドがロシア・ソヴィエトの領土獲得に向けて仕掛けた戦争です。

今回はこのポーランド・ソヴィエト戦争について、詳しく深掘りしていきたいと思います。

世間ではあまり知られていない戦争ですが、この戦争を知ることでソヴィエトやその周辺の国の歴史が分かります。

もくじ

ポーランド・ソヴィエト戦争とは

ポーランド・ソヴィエト戦争は1920年4月から1921年3月の間、ポーランドとロシアのソヴィエト政権との間に行った戦争です。

独立を獲得したばかりのポーランドは、内乱と外国干渉で疲弊したソヴィエト・ロシアに侵入。
第一次世界大戦の処理で、連合国際会議がポーランドとソヴィエトの間の国境線を定めました。
この国境は1920年、イギリス外相カーゾン卿が提案したカーゾン線と呼ばれます。

しかし、ポーランドはこれに納得することなく、戦争に突入しました。

ポーランド・ソヴィエト戦争は、ソヴィエト干渉戦争のひとつと考えられています。
第一次ポーランド分割前の国境を取り戻すために、リトアニア、白ロシア(ベラルーシ共和国)、ウクライナを含めた連邦制により新生ポーランドを目指していました。

この戦争は、ソヴィエト連邦成立(1922年)前である1920年から1921年に行われ、ポーランドがソヴィエトに勝利した唯一の戦争です。

ポーランドがソヴィエトに勝利したことで、共産主義の社会を広げようとするソヴィエトを押しとどめることに成功しました。
ソヴィエト周辺の国々だけではなく、全ヨーロッパの将来にも影響を与えることに。

現在でも、ロシアはウクライナ侵攻で世界中の注目を集めていますが、昔からこの辺りの地域では、激しい領土の奪い合いが行われていたのですね。

私たちの国では、自分の住んでいる地域の国境が代わるといったことは起こりません。
しかし、ロシア周辺の国境付近に住んでいた人々は、戦争に巻き込まれることもあったと思います。

特に西側はドイツ、東側はソヴィエト、南側をオーストリアに囲まれているポーランドは、
幾度も戦争に巻き込まれ、領土を奪われてきました。
ポーランドの人々には逞しさを感じます。

戦争直前の両国の状況

ポーランド・ソヴィエト戦争の直前、両国はどのような状況だったのでしょうか?
それぞれの国の様子をみていきましょう。

ポーランド

1795年のパリ講和会議で、分割以来となる独立を果たしていたポーランド。
1918年11月、ポーランド共和国が成立。

ポーランド共和国が成立する1年前の1917年、ソヴィエト・ウクライナ戦争でウクライナは首都キーウを奪われていました。
ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が樹立され、領土のほとんどを占領されたことで、ポーランドに亡命政府を移しました。

ポーランドがロシアに侵攻する4日前、ウクライナの亡命政府とポーランド政府の間で攻守同盟(ワルシャワ条約)が締結。
この同盟によってポーランド・ソヴィエト戦争にウクライナ軍も参戦し、ポーランド軍を援助することになります。

ポーランドはかつてのポーランド・リトアニア共和国の領土を奪い返そうと目論みます。
ベラルーシ西部やウクライナ西部への野心も持っていたようです。

この頃のポーランドでは、ユゼフ・ピウスツキが首相と元帥を務めていました。
ポーランド・ソヴィエト戦争でポーランド軍を率いた英雄として、現在でも人気の高い人物です。

ソヴィエト

第一次世界大戦後、1917年に起こったロシア革命による内戦や周辺国の独立運動による影響により、混とんとしていたロシア。
この年の11月、ロシア革命でレーニンを中心としたソヴィエト政権が成立。

1917年、ソヴィエト・ウクライナ戦争が勃発。
1918年3月、ソヴィエト政権はドイツと単独講和をしました。
1919年4月、イギリス・フランス・日本は、ドイツと講和したソヴィエトに宣戦布告します。

同年8月、ソヴィエトの捕虜になったチェコ兵隊の救出のために、米を中心としたソヴィエト干渉戦争が始まります。

帝政ロシアを倒して成立していたロシア臨時政府を、十月革命で打倒したウラジーミル・レーニン。
ウラジーミル・レーニンが率いたボリシェヴィキ政権が世界初の社会主義国家、ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国が1922年に誕生することになります。

ロシア帝国時代のポーランドは侵略されまくり、ロシアから国を消されたこともありました。
革命でソヴィエト政権が揉めているうちにソヴィエト領を取りに行こうとしたんですね。

ポーランド・ソヴィエト戦争の前半

ポーランド・ソヴィエト戦争は両国の未来にとって、とても重要な戦争でした。
ポーランドが仕掛けて始まった戦争の序盤の状況を見ていきましょう。

4月25日戦争開始

開戦直後はポーランド側が攻撃を仕掛け、ウクライナのキーウ周辺まで進軍し攻め込みました。

しかし、ロシア・ソヴィエト赤軍もこれにすぐに対抗していきます。
6月10日にロシア・ソヴィエト赤軍から再度キーウを奪われ、ポーランド・ウクライナ同盟軍は撤退することに。
北方と南方から反撃を開始したソヴィエト軍は、7月中旬ポーランドのカーゾン線に到達します。

この頃のポーランド軍は、フランス軍事同盟顧問団により、フランス製の兵器や第一次世界大戦で敗退したドイツ軍・オーストリア・ハンガリー軍の遺棄兵器で編成されていました。

そのため、装備が揃わず、兵士の練度もロシア・ソヴィエト赤軍に劣っている状況でした。
ポーランド軍が得意としていた機動戦を展開できなかったのも敗退の原因と言われています。

戦争に勝つためには戦略や優れた装備、明確な目標などが必要なのですね。
軍を指揮する名将も大事な要素になります。
将棋をする際にも、戦術や自分の駒をどのように動かすかとても頭を使います。

実際の戦場では状況を上から俯瞰して見ることができないため、名将といわれた人物たちのすごさに驚かされます。

ロシア・ソヴィエト赤軍の進撃

撤退したポーランド軍は7月14日にヴィリニュス(現在のリトアニアの首都)、19日にグロドノ(現在のベラルーシ、ポーランド・リトアニアとの国境付近)を占領されます。
ロシア・ソヴィエト赤軍は1日で30㎞という速度で進撃してきます。

8月1日、ブレスト・リトフスク(現在のベラルーシ、ポーランド国境近くの都市)を占領されますが、ポーランド軍が遅滞戦術を展開したことで、ロシア・ソヴィエト赤軍を1週間の間足止めすることに。

ロシア・ソヴィエト赤軍は、ポーランドの首都ワルシャワの東方100㎞辺りまで進軍することに成功しました。
この軍を率いたのは赤軍の至宝と呼ばれた軍事の天才、ミハエル・トゥハチェフスキーです。

8月10日、トゥハチェフスキーはワルシャワの攻略を試みます。
ワルシャワ北部はポーランド軍が手薄だったので、北西正面軍は北西に兵力を集中させます。

南部には、そこに展開していた南西正面軍を充てようとしますが、指揮官の不仲と南西正面軍政治顧問だったヨシフ・スターリンの思惑もあり、南西正面軍は南のリヴィウの攻略を続けることになります。

ヨシフ・スターリンは後のソヴィエト連邦の最高指導者です。
南部の都市リヴィウの攻略を優先したスターリンは、戦後にそのことをロシア・ソヴィエト赤軍の最高指導者であったレフ・トロツキーに非難されてしまいます。

ポーランド・ソヴィエト戦争の後半

戦争が進んでいくうちに、ロシア・ソヴィエト赤軍が有利な状況になっていました。
このまま、ソヴィエト側が勝利へと進んでいくのでしょうか?
戦争終盤の動きを解説していきます。

ヴィスワ川の奇跡

ポーランド軍は第5軍の指揮官であるヴワディスワフ・シコルスキが、長距離高速度行軍で的確な防衛線を展開し、ロシア・ソヴィエト赤軍の足止めに成功

そのすきにユゼフ・ピウスツキ将軍の機動部隊が、ワルシャワとリヴィウの間隙を突き、ロシア・ソヴィエト軍の左翼方面から圧力をかけました。

北部の主力部隊が包囲されることを恐れたトゥハチェフスキーは撤退を指示し、首都ワルシャワの陥落はロシア・ソヴィエト赤軍の失敗に終わります。
ポーランドではこの勝利をヴィスワ川の奇跡と呼び、後世まで語り継がれます。

戦争の終結

南部の都市リヴィウを攻撃していたロシア・ソヴィエト赤軍南西正面軍も、9月6日には援軍のポーランド機動部隊の前に敗退し、東方に撤退。

さらに後軍を再編して体勢を立て直そうと試みますが、ポーランド機動部隊がことごとく阻止することに成功しました。

10月に入り、ポーランド軍はミンスク(現在のベラルーシ首都)辺りまで侵攻しますが、ポーランドは危機的な財政難に直面し、ロシア・ソヴィエト政府から停戦の申し出を受けて停戦。

1921年3月、ポーランド政府とロシア・ソヴィエト政府、ウクライナ・ソヴィエト政府との間でリガ条約が締結されます。
ポーランドはロシアからウクライナと白ロシア(ベラルーシ)の一部を獲得。

この条約でロシア・ソヴィエト政府はポーランドに領土を大幅に譲歩しました。
機動戦だったこの戦争は、進軍の速さが勝利へのカギを握ることになりました。
1日に30㎞という移動距離にも驚きです!

間隙を突いて回り込んだり、敵を包囲しようとする作戦には驚きますが、それらをまとめて指揮する統率力にも感心します。

まとめ

  • ポーランド・ソヴィエト戦争はポーランドとロシアのソヴィエト政権との間に行われた戦争
  • 1918年11月にポーランド共和国が成立、ロシアでは1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立
  • 戦争開始時はポーランド軍がキーウまで進軍していたが、すぐさまロシア・ソヴィエト赤軍がポーランドの首都ワルシャワの東方100㎞辺りまで進軍
  • ロシア・ソヴィエト赤軍は首都ワルシャワの陥落を目指すが失敗
  • 1921年3月にリガ条約が結ばれ、ポーランドが大幅な領土拡大に成功し戦争が終結

第一次世界大戦とロシア革命後の混乱した時代に起こったポーランド・ソヴィエト戦争は、ポーランドの勝利で幕を閉じました。

ポーランドはこの戦争の経験を活かし、機動力のある騎兵部隊が重要と考え、その錬成を積極的に行うことになります。
後の第二次世界大戦でナチスドイツと戦闘の際に一定の戦果を挙げます。

ロシア・ソヴィエト赤軍もこの戦争で積んだ経験をもとに、機動戦などの知識を習得し、新時代に適合できる軍事理論の形成に力を注ぎました。

戦争で得た教訓を活用して、更に強い軍隊に成長していくことは、自分たちの国を守ることに大切なことです。
しかし、戦争では多くの人々が亡くなり、たくさんの大切なものを失うことになります。

武力や戦争ではなく、話し合いや他国との協力で世の中を穏やかにできないでしょうか?
今でも世界のどこかで戦争が行われている状況ですが、二度と戦争はしないという教訓を学べたらと切実に願います。

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