皆さんはポーランドと聞くとどんなイメージが浮かぶでしょうか?
周囲の国に分割されたり、アウシュビッツ収容所が建設されたりと、悲劇的なイメージを私は持っていました。
しかし、国家が消滅しても復活する、雑草のようにたくましい姿がそこにありました。
今回はそのポーランドの、国家の誕生から現在までの歴史を見ていきます。
ポーランドの歴史
ポーランドの国名は、“野原”を意味する“ポーレ”が語源と言われています。
素朴な由来で、かわいらしいなと私は感じました。
その由来の通りドイツ側の西とウクライナ側の東南の方向が平原となっている地形のため、東西の文化が出会い、融合する地域となっていました。
ポーランドに国家が初めて成立したのは10世紀ですが、そのあと小さな領邦に分かれていき、国家としてのまとまりを失っていきます。
13世紀にモンゴルの襲来を受け荒廃しますが、その復興の過程で黄金期を迎えます。14世紀リトアニアとの連合国家が誕生します。
16世紀にはスウェーデンとの連合国家が誕生するも、短期間で消滅。
その後、大洪水時代と呼ばれる苦難の時代が訪れ、国力が衰えていきます。
結果、ポーランド分割が生じ、一度完全に国家が消えてしまいました。
第一次世界大戦後復活するも、第二次世界大戦で再び消滅。
戦争終結後にソ連の支配下に入り、共産主義国として誕生します。
1989年、非共産主義の国家が誕生して現在につながる民主国家となりました。
以上がポーランドの歴史です。
国家の誕生
現在のポーランドの元となる国家ができたのは10世紀です。
最初にできた国家の中心となっていた民族は、レフ族とポラン族と言いました。
8世紀にそれまでレフ族とポラン族、その他にゴプラン族をまとめていたポピェリド朝が途絶え、ピャストと呼ばれた人物が新しく族長に選ばれます。
このピャスト朝5代目の族長であるミェシュコ1世が近隣の民族を統合させ、キリスト教に改宗しポーランド公国としてヨーロッパに認知されました。
ミェシュコ1世が改宗した理由は、神聖ローマ帝国からの侵略を止めるためにローマ教皇に援助を求めたからです。
王様となると個人的な信仰より、国家に役立つ宗教かどうかが重要なのですね。
仕方ないことなのでしょうが、それでいいのかと私は考えてしまいました。
ちなみに、このミェシュコ1世は現在ポーランドで発行されている10ズウォティ紙幣に肖像画が印刷されています。
いかにポーランドという国家にとって重要な人物かがわかりますね。
ポーランド王国
ミェシュコ1世の息子、ポレスワフ1世は中央政府の権力を強めて国家をまとめ上げ、ポーランド公国の領土を確定しました。
この時確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致します。
1025年、ポレスワフ1世の死の直前にポーランド公国はローマ教皇に王国として認定され、ポーランド王国となりました。
より権威のある存在に認めてもらうことで国家としての正統性を強めようとするのは、日本や他のアジアの国家が中国に朝貢を行い、国家としての権威を認めてもらおうとしたのと似ていますね。
このような共通点を見つけるのは、私が歴史を見ているときに面白いと思うところです。
このポレスワフ1世が亡くなった後は政治的な混乱が続きます。
1038年、ポーランド王国の事実上の君主であったカジェミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへ遷都し、王国を再びまとめました。
分裂時代
1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割し、その内5つを妻と4人の息子にそれぞれ相続させました。
その中の長男であるヴワディスワフ2世が後を継ぎますが、異母弟らと対立し、内戦が繰り返されます。
内戦はなかなか終わらず、王国はどんどん小さな領邦に分裂していきました。
父親が亡くなったあと、先妻の子と後妻の子が対立する。
古今東西よくある話ではありますが、そのせいで国の弱体化が進んでいくというのは、民衆にとってはたまったものではないと私は想像しました。
1226年、コンラト1世は異教徒であったプルーセン人の討伐を進めるため、クルムラント領有権と引き換えに当時ハンガリーにいたドイツ騎士団を招きました。
プルーセン人は抵抗しますが軍事力の差があったため、結局従属することになります。
ドイツ騎士団はクルムラントとプルーセン人の土地、のちにプロイセンと呼ばれる領土の所有権を認められるようになりました。
モンゴル帝国の侵攻
1241年、モンゴル軍がポーランド南部に来襲し、ヨーロッパがその知らせに震撼します。
当時のグレゴリウス9世教皇は全キリスト教徒に対して、ポーランドを助け、この異教徒と戦うべきであるというメッセージを発しました。
プロイセン領のドイツ騎士団とポーランド諸王侯は連合軍として戦いましたが敗北しました。
ですが、モンゴル軍は皇帝が死去したため引き返します。
九死に一生を得たというところでしょうか。
他国の異教徒に支配されるということは起こらなかったのですが、戦争によってすっかりクラクフ公領とシロンスク公領の南部は荒廃してしまいました。
住民も多くが殺されて人手が足りなかったので、国王はドイツ人と、ユダヤ人にも復興のために来てもらいました。
ドイツ人やユダヤ人の手によって商業を発展させるために有利な法律や新しいビジネス、技術などがもたらされ、経済的な繁栄を取り戻していきます。
ただ、これでめでたしめでたしといかないのが、ままならないところです。
ドイツ人住民のおかげで復興が進みましたが、政治や社会でその影響力が強くなった結果、もともと住んでいたポーランド人が不満を持ち始めました。
「元は俺たちの土地なのに」
と感じたのでしょうか。
復興ができたのならそれだけでもありがたいと私は思ったのですが、人間は難しい生き物ですね。
このポーランド人とドイツ人の感情的なしこりは近代まで影響をもたらすことになります。
復興からの黄金時代
14世紀、ほかのヨーロッパ地域ではユダヤ人に対する差別があったため、ユダヤ人の保護政策を行っていたポーランドへの移住が続いていました。
彼らの協力のもと、ポーランドの経済発展は続いていきます。
「差別をしてユダヤ人を追放してしまった側は悔しがるんじゃないか?」
私は疑問になってしまいました。
特に軍事、外交、内政といずれにも巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世大王の時代にポーランドは大発展しました。
国内初の大学であるクラクフ大学(ヤギェウォ大学)は大王の時代に設立されています。
地動説を唱えたコペルニクスもこの大学で学んだそうです。
ポーランド=リトアニア連合
カジェミェシュ3世以降、男子に恵まれないなどの事情が王位継承に不安定さをもたらしていました。
王位が不安定だと国全体が不安定になり、弱体化していきます。
そんな中、1385年にポーランドの女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラが結婚し、ポーランド=リトアニア連合を形成しました。
これにはポーランドに対して影響を強めるドイツ騎士団に対抗するためでありました。
「ヤドヴィガはお仕着せで王位に就けられたかわいそうな女性かな」
というのが私の第一印象でした。
ですが、芸術家や著述家を支援したり、病院を設立したり、大学を復興させたりなど国家のために多大な貢献をしたそうです。
操り人形ではない、しっかりとした意思を持った女性だったのですね。
リトアニアはキリスト教の国ではなかったのですが、ポーランドとの同盟をきっかけにキリスト教化が進んでいきます。
ただし、カトリックが大半だったポーランドとは違い、プロテスタントや正教会の信者やキリスト教に転向しない人々もいました。
1440年、ポーランド王国とプロイセン連合とドイツ騎士団との間で戦争が起こりました。
この結果、1466年に第二次トルンの和約が結ばれ、ドイツ騎士団は敗北します。
この結果プロイセンの土地はドイツ騎士団ではなくポーランドの支配下に入りました。
さらにポーランドの領土が広がったのですね。
1569年、ポーランドはリトアニアを併合してポーランド=リトアニア共和国が誕生します。
1385年の連合は、ポーランド王とリトアニア王がどちらもそれぞれの地域の支配権を持ったまま連合するというものでしたが、今度はポーランドが両方の国の支配権を持つことになりました。
この共和国は、ポーランドの貴族であるシュラフタと呼ばれる人々が選挙を行い、国王を決定する“選挙王制”と呼ばれる制度を採用しました。
16世紀後半から17世紀の頭にかけて、名宰相といわれるヤン・ザモイスキが強大な行政権を持ち、死の間際までポーランドを統治しました。
この時期にポーランドはまた発展します。
ザモイスキは自分の領地においては農奴制を廃止し、すべての住民に基礎教育を施すなど開明的な指導者でした。
彼の思想が、1791年にヨーロッパで初めて制定された「5月3日憲法」の基になっています。
約200年あとの時代の憲法にまで影響を残すなんて、ものすごく進んだ思想を持った人だったのだと私は感じました。
ポーランド=スウェーデン連合
1592年、ポーランド国王であったジグムント3世がスウェーデン国王となったため、ポーランド=スウェーデン同君連合が誕生します。
これはバルト海の支配を目論むモスクワ大公国に対抗する目論見がありました。
協力して、敵と戦おうということですね。
ジグムント3世は幼い時からポーランドのクラクフで育ち、イエズス会の教育を受けて熱心なカトリック信者となりました。
スウェーデンはプロテスタント信者が多く、そのため次第に関係が悪化していきます。
結局信仰を妥協できないジグムント3世はスウェーデン王位を奪われ、ポーランド=スウェーデン同君連合は消滅しました。
リトアニアとの連合が長い期間続いたのと比べると、何ともあっけないと私は感じます。宗教がそれだけ重要だったということでしょうか。
連合はなくなりましたが、ジグムント3世を輩出したヴァーサ家はその後もポーランド王位を狙い続けたため、スウェーデンとの対立が生じるようになります。
脅威を増してくるロシア。
王位復活を目論むスウェーデン。それらの外国軍と共謀し、ポーランド=リトアニア共和国を崩壊させようとするリトアニア貴族。
戦争が重なったこの時代は大洪水時代と呼ばれています。
ノアの洪水のエピソードになぞらえての命名だそうです。
この大洪水時代にポーランドは荒廃し、ポーランド=リトアニア連合の財政は悪化。
政府の力が弱まっていきました。
ポーランド分割
政府の力が弱まったため、国王選挙に対して外国からの干渉が大きくなってきます。
その結果内戦が生じて政府の力が弱まってしまい、ポーランド分割が行われました。
ポーランドに隣接するロシア帝国、プロイセン王国、オーストリアの3つの国の間で土地が割譲されたのです。
プロイセンはかつてポーランドが支配していた地域でもありましたが、諸行無常を感じますね。
4度の分割が行われた結果王国は消滅してしまいました。
祖国がなくなるというのはどういう気持ちなのでしょうか。
私には想像もつかないですが、ポーランドの人々はそこで希望を捨てず、独立運動を行っていきました。
ワルシャワ公国
1807年、ナポレオンの後ろ盾を得ることによってポーランドはワルシャワ公国として再び独立しました。
しかし、頼みのナポレオンが失脚。
1815年のウィーン会議によって解体され、ロシア皇帝が国王を兼務するポーランド立憲王国となります。
実質ロシアの支配下に入ったわけです。
こうして元ポーランドであった土地は他国の支配を受けることになります。
抵抗運動も行われましたが、その復活は第一次世界大戦の終結まで待たなければなりませんでした。
「復活も消滅も他国の事情次第とは無力感を感じるだろうな」
と私は同情してしまいました。
第二共和国
1918年第一次世界大戦が終結したあと、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、ポーランド共和国として復活しました。
1926年、ユゼフ・ピウスツキがクーデターによって二度目の政権奪取を行い、開発独裁を行いました。
ユゼフ・ピウスツキはポーランド貴族の家庭に生まれましたが家は没落し、ロシアの農村で生まれました。
ロシアでは禁止されていたポーランド語を学び、ポーランドの独立に尽くしました。
ピウスツキが政権を執った時期にポーランドの経済は発展し、国力が強化されました。
しかし、1935年にピウスツキが死去したあとは政治がうまくいかず、そこをナチス・ドイツやソ連に狙われてしまいます。
ところどころで英明な指導者が現れ、国を発展させていくのがポーランドという国の底力が見えますね。
そのあとに衰退の時期が来るのが悲しいですが。
今回もまた、ポーランドによって悲劇が訪れます。
1939年、独ソ不可侵条約の秘密条項によって、ポーランドの土地はナチス・ドイツとソビエト連邦の2か国に分割されます。
またしてもポーランドは消えてしまうことになりました。
ポーランド人民共和国
1945年、ポツダム会談によりポーランド人民共和国が成立しました。
体裁としては独立国ですが、ソ連の支援を受けたポーランド統一労働者党が一党独裁を行い、実質ソ連の支配下にありました。
農地が国有化されるなど、ソ連をモデルとした社会主義国家体制づくりが行われました。
しかし、無計画な経済政策やインフレによって経済状況は悪化。
それにより社会も不安定になります。
この時代に西側諸国から借り入れた負債は現在も残っているそうです。
とんでもない金額だったのですね。
第三共和国
1989年、独裁状態だったポーランド統一労働者党が選挙で敗れ、非共産党政府が成立。
これにより、現代に続く民主国家が誕生しました。
第二共和国の誕生の時は、世界情勢の変化から独立を手に入れた形ですが、この時は自分たちの力で独立を取り戻したというところに、私はポーランド人の魂の強さを感じました。
1990年にはドイツとの領土問題を解消。
1993年、旧ソ連軍が領土から撤退。
1997年には憲法の大幅な改正を行うなど新しい国家づくりが進められました。
1999年にはNATOへ、2004年にはEUへの加盟を行います。
ロシアの影響力を逃れるような動きを行っていますね。
現在も反ロシアの傾向があり、ウクライナ危機以降さらにその傾向が強くなっています。
アメリカ軍の駐屯を歓迎したり、ウクライナの支援を行ったりなどの行動にそれが見られます。
まとめ
- 10世紀にポーランド公国が誕生
- 11世紀にポーランド王家として認められる
- その後、小さな領邦に分かれていき弱体化する
- 13世紀にモンゴルの襲来を受け荒廃
- モンゴル軍を退けたあと、その復興により経済的に発展する
- 14世紀、リトアニアと連合王国を形成する
- 16世紀、スウェーデンと連合王国を形成するもほどなくして解消し、大洪水時代と呼ばれる戦乱の時代になる
- ロシア、オーストリア、プロイセンによりポーランド分割が行われ、国家が消滅
- ナポレオンの後ろ盾によりワルシャワ公国として復活するも、すぐにロシアの支配下となる
- 第一次世界大戦後、ポーランド共和国として復活
- 第二次世界大戦中に再度消滅し、終戦後ソ連の衛星国として復活する
- 1989年、選挙により非共産主義国家が誕生し、現在まで続く
優れたリーダーが現れた時には発展をし、反対にリーダーが権力をうまくまとめられないと弱体化して隣国に狙われてしまう。
海が天然の要害となり、外国からの干渉を和らげてくれていた日本とは異なる、シビアな歴史がポーランドにはありました。
しかし、その中でポーランドは独自の文化や言語などのアイデンティティを守り、二度の復活を果たします。
1つの時代だけではなく歴史の流れを見ると、よりその国の魅力がわかりますね。