ロシア帝国で起こった十月革命とは?背景からその後まで解説

皆様、はじめまして。
この記事の筆者の松浦です。

今回は1917年のロシアで起こった十月革命について、その背景から起こったこと、そしてその後どうなったかを含めてお話しいたします。

私は世界史の中でもヨーロッパの現代史を特に好むので、この記事を書くこととなりました。

ロシア革命前後の流れを大まかにでも把握したいという方におすすめです。

どうか、最後までお付き合いください。

もくじ

十月革命はいつ起こったか

まずは十月革命そのものについてです。

十月革命はユリウス暦1917年10月25日(グレゴリオ暦1917年11月7日)に起こりました。

当時のロシアではユリウス暦という暦が使われていたので十月革命と呼ばれていますが、現在の日本ではグレゴリオ暦という異なる暦が使われています。

そのため、十月革命とは言いますがグレゴリオ暦基準では11月に起こったことになります。

混乱を避けるため、この記事では月の表記を十月革命で統一し、暦の表記はグレゴリオ暦に統一いたします。

なお、当のロシアは十月革命後の19182月にグレゴリオ暦が導入された後に192910月になってソビエト連邦暦という独自の暦が導入され、最終的には19406月末にグレゴリオ暦が復活しました。

20世紀に入ってもまだ暦が違う国と外交していたことには、私も驚かされました。それと、暦の変遷が目まぐるしいなと思いました。もう少し落ち着きが欲しかったところです。

十月革命の背景

革命の意味は…

従来の被支配階級が支配階級から国家権力を奪い、社会組織を急激に変革すること
引用:「広辞苑 第7版(電子辞書版)」(岩波書店)

とありました。

当時のロシアはロシア帝国と呼ばれる、皇帝が統治する国家でした。
被支配階級は一般市民のことと考えてよいでしょう。

つまり、この定義に従うと皇帝が権力を奪われ、市民たちが権力を握ってロシアを変えてしまった、ということになります。

実際に起こったこともこの通りで、十月革命に先立つ二月革命で当時の皇帝ニコライ2世は退位させられ、最終的にはソビエト政権によって処刑されています。

そして、今回扱う十月革命でソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へ権力が集中され、ソ連の成立に向かっていくこととなりました。二月革命と十月革命を合わせてロシア革命と呼ぶこともあります。

それ以前からロシア帝国内では政府に対する不満が高まっていました

資本主義の浸透によるものか国民の間での貧富の差が拡大していき、労働者や農民の生活は苦しい状態になっていたのです。

ここに日露戦争の多大な戦費が追い打ちをかけ、ついに国内で暴動や反政府運動が勃発(ロシア第一革命)。

武力鎮圧されたものの、ニコライ2世は暴動の要求(立憲君主制の確立、国会(ドゥーマ)の開設など)をほとんど受け入れました。

運動を指導した革命家たちが国外に亡命するなどしたため、革命運動はその後しばらく鳴りを潜めます。

しかし、1914年に第一次世界大戦がはじまりました。

ロシア帝国も大戦に参戦したもののドイツ軍に連戦連敗し、国民の厭戦気分も高まる一方

この不満が二月革命と十月革命につながっていきます。

敗北したことに関しては、当時のドイツ軍がイギリス・フランス・ロシアをまとめて相手にしてもなお勝てるほど強かったため、仕方のないことではあると思います。

また、日露戦争後には日本でも暴動(日比谷焼き打ち事件)が起こっていますが、こちらは革命には発展していません。

私の考えですが、西洋列強のうち1国であるロシアに賠償金を取れなかったとはいえ勝利を収めたことが大きかったのでしょう。

臨時政府とソビエトの対立

19173月の二月革命でニコライ2世が退位したのち、それに代わるものとして臨時政府が成立しました。

この政府で実権を握ったのが自由主義者や穏健な社会主義者の他、貴族などの上流階級、いわゆるブルジョワです。

彼らはロシアの自由化・民主化を推し進めようとします。

これに腹の虫が収まらなかったのが労働者たちです。

旧ロシア帝国の首都ペトログラード(現在の名称はサンクトペテルブルク)ではソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)が権力を確保しましたが、その内部には複数の勢力がいました。社会革命党、メンシェビキ、そしてボルシェビキです。

前者2勢力は比較的穏健で、臨時政府と協力しながら少しずつ革命を進めていこうとするグループでした。

問題はボルシェビキです。ソビエトの中でも急進派にあたる彼らは

ブルジョワが権力を握るようではロシアを変えることはできない

と、臨時政府に対して不満をもつようになりました。

加えて、同年5月、国民の厭戦気分が高まっていたにもかかわらず臨時政府が戦争継続を決定したことで対立は決定的になります

ここで戦争をやめる方向に行っていれば、十月革命は起こらなかったかもしれませんが、そうはならなかったせいでソビエトの内部はガタガタです。

さらに、このタイミングでとんでもない人物がロシアに帰ってきてしまいます。

帰ってきたレーニン

多少順番は前後しますがそんなときにロシアに帰国してきたのが、教科書でもおなじみ、革命家のレーニンです。

ロシア第一革命の後に亡命してスイスにいましたが、19174月にロシアに帰国してきたのです。

ボルシェビキの人間の中でも主要な立場にいた彼は、帰ってくるなり「四月テーゼ」を発表します。

第一次世界大戦からの離脱とソビエトへの権力集中を唱えた上で、そのために

「さらなる革命を起こして臨時政府から権力を奪取しよう」

と主張しました。

革命を実現すべく臨時政府に圧力をかけ続けたボルシェビキですが、19177月に七月蜂起が起こります。

ペトログラードの労働者や兵士が自発的に武装状態でのデモを起こし、臨時政府側と衝突したのです。

結果としてボルシェビキの主だった党員はほとんど逮捕され、レーニンはフィンランドに逃亡することになります。

ただ、その後のコルニーロフ反乱(ロシア軍の参謀長コルニーロフがソビエトに対して起こした反乱)で臨時政府がソビエト側につき、逮捕した党員を釈放したことでボルシェビキの壊滅は免れました。

このときの経験からか、レーニンは平和的な権力集中から武力蜂起による暴力革命に方針転換

党勢回復後もボルシェビキは臨時政府の打倒を試みることになります。

せっかく逮捕したのだし、釈放なんかせずに閉じ込めておけばよかったのに…

十月革命とソビエト政権の成立

19171010日。ボルシェビキの中央委員会は、

「武装蜂起の準備は整った」

とする宣言を採択。

第二回全国ソビエト大会が開催される、同月25日に蜂起することを決定しました。
そして同日にペトログラードで蜂起します。

当然のことながら臨時政府側はこれを抑えようとするもかないませんでした。

臨時政府の閣僚らがいた冬宮(冬宮殿。ロシア皇帝の冬季の宮殿として建てられた)は陥落し、閣僚たちは逮捕されます。

そして、冬宮の陥落後、ソビエト大会が権力のソビエトへの移動を宣言

臨時政府は崩壊して二重権力状態が終わり、四月テーゼのうち権力奪取が実現されることになりました。

臨時政府を指揮していたケレンスキーは冬宮からの脱出に成功してソビエトに対し抵抗しますが鎮圧されます。

また、権力移行に反対した社会革命党右派やメンシェビキも、ペトログラード市内で反乱を起こしましたが、これも同様に鎮圧され、ボルシェビキの手によるソビエト政権が樹立されることとなりました。

せっかくの民主的革命も台無しです。その後、ロシアに民主主義が戻って来るまでには長い年月がかかっています。

ロシアはもとより民主主義の基盤が弱い国家です。現在の体制も民主主義的であるとは言えませんが、今後も民主主義体制を保つことは難しいことでしょう。

ロシア内戦とソ連の成立

ペトログラードの周辺やロシア人が多数派の地域ではソビエトへの権力移譲がスムーズにいきましたが、ウクライナやバルト、コーカサスではそれぞれの現地勢力が独立を宣言するなど反ボルシェビキの姿勢を見せました

また、中央同盟国との戦闘は続き、ソビエト政権を警戒した英仏日米などが現地勢力を支援したため、旧ロシア帝国領は泥沼の内戦に陥ることになりました。

ソ連が成立するのは、内戦終了後の1922年末のことです。

十月革命のまとめ

今回はロシア革命の一部である十月革命を、背景やその後まで含めて説明しました。

参考動画

  1. 十月革命は191711月に起こった
  2. ロシア第一革命は鎮圧されたが譲歩が行われ、制度の整備が進む
  3. 二月革命により帝国が崩壊し、ソビエトがある程度の権力をもつ
  4. レーニンが帰国してボルシェビキを指導し、臨時政府の打倒を目指す
  5. 十月革命で臨時政府が倒れ、ソビエトへの権力集中が達成される
  6. 内戦後の1922年、ソ連が成立する

    個人的には、臨時政府も早急に中央同盟国と講和して第一次世界大戦から離脱しておけばよかったのに、と思います。

    ソビエト政権も十月革命より後に中央同盟国と講和しましたが、二月革命当時よりも押し込まれた結果、旧ロシア帝国領を大きく失ってしまう結果となります。

    革命で国内が混乱している状況で戦争を継続しようという方針は私も疑問に思いました。

    また、第一次世界大戦中に同じ陣営にいた英仏も、以前からロシア国内が不安定になっていたのはわかっていたはずです。

    戦争遂行にロシアの助けが必要だったのはわかりますが、経済的支援をするなり制度を民主的にするよう圧力をかけるなり、やれることはあったのではないかと思います。

    ロシア帝国が崩壊したことで、戦間期には民主主義のイギリス・ファシズムのドイツに加え、英仏に協力的とも限らない第三極として共産主義のソ連が生まれてしまいました。

    このことは確実に英仏の政治的かじ取りを難しくしています。

    とりあえずロシア帝国を生かしておいて立憲君主制に持っていくとかできればよかっただろうと思うばかりです。

    これで十月革命についての記事を終わります。
    ここまで読んで下さいましてありがとうございました。

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