航海法(こうかいほう)とは、イギリスが自国と植民地の貿易を自国の船に限るために定めた一連の法律です。最初の本格的な法は1651年、クロムウェルらのコモンウェルス政府のもとで、当時の海運大国オランダを締め出すために制定されました。重商主義を代表する政策です。
世界史では、航海法を二つの文脈で押さえます。一つは17世紀の英蘭関係で、航海法がオランダとの英蘭戦争を招いた点です。もう一つは18世紀のアメリカで、貿易を縛られた植民地の不満がアメリカ独立戦争の遠因になった点です。
「いつ・なぜ作られ、なぜ廃止されたのか」を順に整理すると理解しやすくなります。航海法は1651年に始まり、1660年・1663年に強化され、19世紀半ばに自由貿易への転換とともに廃止されました。
まず一言でいうと
航海法は、イギリスが貿易の利益を自国に集めるための海運統制法です。オランダ排除から始まり、植民地を本国経済に組み込み、最後は自由貿易の流れのなかで姿を消しました。
| 名称 | 航海法(航海条例) |
|---|---|
| 英語名 | Navigation Acts |
| 最初の制定 | 1651年(コモンウェルス政府、クロムウェルの時代) |
| 強化 | 1660年・1663年(王政復古後のチャールズ2世期) |
| 目的 | オランダの中継貿易を排除し、貿易の利益をイギリスに集める(重商主義) |
| 主な影響 | 英蘭戦争、アメリカ植民地の不満と独立運動 |
| 廃止 | 1849年・1854年(自由貿易への転換) |
航海法とは何か(重商主義のなかで)
航海法は、貿易を国家の富につなげる重商主義の考え方を、海運のルールにしたものです。輸入品はイギリス船か原産国の船で運ぶこと、植民地の重要産品はイギリスかその植民地にしか送れないことなどを定めました。
ねらいは、外国の船、とくにオランダ船を貿易から締め出すことです。当時のオランダは、他国の商品を安く運ぶ「海の運送業者」として栄えていました。イギリスはその仲介を排除し、自国の海運と利益を伸ばそうとしました。
いつ・誰が作ったのか
最初の航海法は1651年、クロムウェルらが主導したコモンウェルス政府のもとで成立しました。王政が一時とだえていた共和政の時期です。その後、1660年に王政復古でチャールズ2世が即位すると航海法は作り直され、砂糖・タバコ・藍などの「列挙商品」はイギリス本国か英植民地にしか積み出せないと決められました。
さらに1663年の法では、ヨーロッパの産品を植民地へ送るときは、いったんイギリスを経由しなければならないと定めます。こうして貿易の流れがイギリスを中心に組み替えられました。東インド会社のようなアジア貿易の枠組みも、この重商主義の体制と結びついて動きました。
なぜ作られたのか(目的)
| 目的 | 内容 |
|---|---|
| オランダ排除 | 中継貿易で栄えるオランダ船を、イギリスと植民地の貿易から締め出す |
| 海運の育成 | 自国船での輸送を義務づけ、イギリスの海運業と船員を増やす |
| 植民地の囲い込み | 植民地の重要産品を本国に集め、再輸出の利益も得る |
| 国富の確保 | 重商主義の発想で、貿易黒字と関税収入を国家の富につなげる |
英蘭戦争との関係
1651年の航海法は、海運で利益を上げていたオランダへの打撃でした。これがきっかけの一つとなり、翌1652年から英蘭戦争が始まります。航海法は、経済政策が戦争に直結した例として理解できます。
英蘭戦争は17世紀に三次にわたって戦われました。争点は海上貿易と植民地の主導権です。戦いを重ねるなかで、北海・大西洋の海上覇権はしだいにオランダからイギリスへ移っていきました。航海法は、その覇権交代を後押しした制度的な武器だったといえます。
アメリカ植民地への影響
航海法は、北アメリカの植民地にも大きな影響を与えました。植民地は、産品の輸出先や輸入の経路をイギリスに縛られ、密貿易も広がります。ただし18世紀前半は法の運用がゆるく、「有益なる怠慢」と呼ばれる事実上の黙認が続きました。
転機は1764年です。財政難のイギリスが取り締まりを強め、砂糖法や印紙法、タウンゼンド諸法と続く課税強化が植民地の反発を呼びました。ボストン茶会事件を経て、不満はアメリカ独立戦争へとつながります。航海法は、その長い対立の出発点に位置づけられます。
なぜ廃止されたのか
19世紀に入ると、イギリスでは自由貿易を求める声が強まります。産業革命で「世界の工場」となったイギリスにとって、貿易を縛る重商主義の規制はかえって足かせになりました。列挙商品の制度は1822年に縮小され、穀物法の廃止(1846年)に象徴される自由貿易の流れのなかで、航海法も1849年と1854年に廃止されました。
つまり航海法は、保護による海運育成という役割を終えたのちに、自由貿易政策へ道を譲ったといえます。経済の主役が「保護」から「自由」へ移った転換点を示す出来事です。
世界史上の意味
航海法は、重商主義の典型でありながら、その限界も示した政策です。短期的にはイギリスの海運と海上覇権を支えましたが、植民地の反発を生み、最終的には自由貿易に取って代わられました。経済政策が、国際関係や植民地統治にどう跳ね返るのかを学べる題材です。
年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1651年 | コモンウェルス政府が最初の航海法を制定(対オランダ) |
| 1652〜1654年 | 第一次英蘭戦争 |
| 1660年 | 王政復古後に航海法を再制定。列挙商品の制度を導入 |
| 1663年 | ヨーロッパ産品は英経由でのみ植民地へ送るよう規定 |
| 18世紀前半 | 「有益なる怠慢」で運用がゆるむ |
| 1764年〜 | 取り締まり強化と課税強化が植民地の反発を招く |
| 1822年 | 列挙商品の制度を縮小 |
| 1849年・1854年 | 自由貿易への転換のなかで航海法を廃止 |
関連用語
- 重商主義: 貿易黒字や関税で国富を増やそうとする経済思想。航海法の土台。
- 自由貿易: 関税や規制を減らす政策。航海法廃止の背景。
- 穀物法: 1846年に廃止された保護関税。自由貿易への転換の象徴。
- 東インド会社: 重商主義期のアジア貿易を担った特許会社。
- 砂糖法: 1764年の課税強化。植民地の不満を高めた。
- 印紙法: 1765年の課税。「代表なくして課税なし」の反発を生んだ。
- タウンゼンド諸法: 輸入品への課税。植民地との対立を深めた。
- ボストン茶会事件: 課税への抗議。独立への流れを加速させた。
- アメリカ独立戦争: 航海法以来の不満が行き着いた独立戦争。
試験で押さえるポイント
- 航海法は重商主義を代表するイギリスの海運統制法。
- 最初の本格的な法は1651年、コモンウェルス政府(クロムウェルの時代)。
- 直接のねらいは、中継貿易で栄えるオランダの排除。
- 1651年の航海法は英蘭戦争(1652年〜)の一因。
- 植民地への締めつけ、とくに1764年以降の強化がアメリカ独立の遠因。
- 廃止は1849年・1854年。自由貿易への転換が背景。
よくある質問
航海法とは何ですか?
イギリスが、自国と植民地の貿易を自国の船に限るために定めた一連の法律です。重商主義を代表する政策で、最初の本格的な法は1651年に成立しました。
航海法はなぜ作られたのですか?
中継貿易で栄えていたオランダを、イギリスと植民地の貿易から締め出すためです。あわせて自国の海運を育て、貿易の利益を本国に集めるねらいがありました。
航海法はいつ廃止されましたか?
1849年と1854年に廃止されました。産業革命後のイギリスで自由貿易を求める動きが強まり、穀物法廃止(1846年)に象徴される流れのなかで姿を消しました。
クロムウェルと航海法の関係は?
1651年の最初の航海法は、クロムウェルらが主導したコモンウェルス政府のもとで成立しました。そのため「クロムウェル航海法」と呼ばれることがあります。
航海法はアメリカ独立とどう関係しますか?
植民地の貿易を縛る航海法への不満が、独立運動の土台になりました。1764年以降の取り締まり強化と課税が反発を強め、アメリカ独立戦争へとつながります。
確認問題
- Q1. 最初の本格的な航海法が制定された年を答えよ。
答え: 1651年。 - Q2. 1651年の航海法が直接のねらいとした国はどこか。
答え: オランダ。 - Q3. 航海法の土台となった経済思想は何か。
答え: 重商主義。 - Q4. 1651年の航海法をきっかけに始まった戦争は何か。
答え: 英蘭戦争。 - Q5. 航海法が廃止された背景にある19世紀の経済政策は何か。
答え: 自由貿易。
参考文献・参考資料
- Encyclopaedia Britannica, Navigation Acts
- Encyclopaedia Britannica, Anglo-Dutch Wars
- Encyclopaedia Britannica, Mercantilism
