1721年から長い間続いたロシア帝国が、1917年に崩壊し、社会主義を目指すソヴィエト政権が生まれます。
この年に起こった十月革命により、レーニンを指導者とするボリシェヴィキが世界初の社会主義政権を成立させました。
革命後には内戦が続き国内はまとまりません。
共産党一党支配体制が強くなる一方で経済も疲弊が極限に達しており、国民は不満を募らせ、各地で暴動が頻発状態に。
“レーニン”や“ボリシェビキ”など人名や言葉は、歴史に詳しくない私も知っていますが、実際に何をした人なのか、どのような意味があるのかを説明することはできませんでした。
ロシアの歴史については難しく苦手な部分もあり、今までは避けていた私。
独裁化していくボリシェヴィキ政権に対して起こったクロンシュタット反乱。
あまり聞きなれないこの出来事は、ソヴィエト時代のロシアにどのような影響を与えたのでしょうか?
今回は、このクロンシュタット反乱について詳しく解説していきます。
現在も戦争を続けているロシアの歴史には、どのような出来事があったのか学んでいきましょう。
クロンシュタット反乱とは?
クロンシュタット反乱とは、1921年3月にペトログラード西方の軍港都市クロンシュタットの水兵による反政府反乱です。
当時は国内の内戦が終了を迎えていましたが、労働者のストライキや農民反乱が活発になっていきます。
一連の反政府反乱の頂点にクロンシュタット反乱がありました。
革命の原動力のひとつとなったクロンシュタット軍港の水兵は、ほとんどが農民から徴兵されていた兵士です。
反乱前はボリシェヴィキがロシア革命を進める上での重要な支持者でした。
ところが、次第にボリシェヴィキと水兵の意見はすれ違っていくことに。
その原因は革命後に強化された共産党一党支配体制でした。
経済的疲弊が極限に達し、農民は穀物の強制割り当てや取り立てに不満を持ちます。
クロンシュタットの水兵と市民たちは3月1日、戦艦ペトロパブロフスクの船上で乗組員集会を開催。
1万5000人規模の大集会となり、非共産党諸党派の活動の自由などを要求する15項目の決議を採択しました。
主なものに次のような内容があります。
- 言論や集会の自由
- 農業や家内工業の統制の解除
- 全ての政治犯の釈放
- 全ての勤労人民の配給領の平等化 など
翌日には、臨時革命委員会を結成し『ボリシェヴィキなきソヴィエト』のスローガンを掲げて決起します。
一党体制は単一の政党が政治権力を独占する体勢で、優秀なリーダーが存在すれば、軍事や政治の物事を迅速に決定することができます。
しかし、権力の暴走が起こりやすくなり、反対派には政治への権利や言論の自由などが保障されません。
人権が守られない体勢になると暴動や反乱が起こるのも当然ですよね。
自由な生活ができなくなり、国民の生活は苦しくなります。
クロンシュタット反乱の結末
反乱に対し、ソヴィエト政府の共産党政権は赤軍の創設者レフ・トロツキーと大規模な鎮圧部隊を派遣し、激しい闘いへと突入していきます。
赤軍は2度にわたる総攻撃の末、3月18日、反乱を鎮圧することに成功しました。
当時、軍事民事委員・最高軍事会議議長だったトロツキーは、
「クロンシュタットは鉄の箒で一掃した」
と発表。
しかし、赤軍側は4000人以上の戦傷者、10000人の死傷者と行方不明者を出しました。
一方で、反乱側である兵士たちの死者数は不明ですが、『共産主義黒書』によると反乱鎮圧後に2103人が死刑の判決を受け、6459人が投獄されたと記されています。
更に反乱側の8000人程の兵士はフィンランドに亡命しましたが、600人の死者と1000人の負傷者を出しました。
亡命した多くの兵士は、後に帰国しましたが2500人が投獄されることに。
死傷者や行方不明者の数から、この反乱がどれだけ大規模で激しいものだったかが分かります。
また、共産党一党主義の政治で国民たちの意見を通すためには、話し合いは無理そうです。
クロンシュタット反乱の影響
クロンシュタット反乱の影響は大きく、これまでの戦時共産主義からネップ(NEP)へ代わる契機となります。
レーニンは民主化を求める反乱や運動を機に、部分的に市場経済を容認する経済政策へ転換。
1914年から7年間にわたった戦争や内戦で、穀物生産が激減し工業生産も落ち込み、経済が波状状態にあったロシアは、この政策転換でソヴィエト政権は経済の復興を果たします。
ネップ(NEP)とはどのような政策なのか、ネップ(NEP)によって外交はどう変わっていったのかもみていきましょう。
ネップ(NEP)
ネップ(NEP)とは1921年3月、レーニンの提案で採択された新経済政策です。
この政策により農民は現物税を一律で支払い、残りの穀物を自由市場に販売できるようになりました。
また、小企業の私的営業が認められ、労働者の雇用や商取引も認められます。
一部の市場経済を容認したことで小資産家が生まれ、ネップマンと呼ばれました。
容認されたのは一部分でしたが、疲弊していたロシア経済に良い影響を与え、国内の財政は安定していきます。
ネップによる外交の変化
レーニンは資本主義国との貿易関係を望み、資本主義国との貿易を再開させました。
反乱のあった1921年、英ソ通商協定が結ばれてイギリスとの貿易を開始。
1922年に開かれた、戦後の世界経済復興について協議するジェノヴァ会議に参加します。
そこでドイツと交渉が行われラパロ条約が締結し、ソヴィエトが初めて認証されました。
1924年1月にはイギリス労働党政府、10月にフランスの左翼連合政府、1933年にアメリカがソヴィエトを承認。
一方では国際共産主義運動の指導組織のコミンテルンによる世界革命路線との矛盾が生まれ、資本主義国からの警戒感は残ったままです。
一部的な経済政策は、“とりあえず”“その場しのぎ”というのが私の感想です。
「とりあえずちょっと変えておけば、この場は収まるかな。」
という印象を受けました。
私の職場でも、上司に要望を出すと一定期間は効果があるのですが、いつの間にか元の体勢に戻っているということがよくあります。
少し似ていると思ってしまいました。
クロンシュタットとは?
あまり聞きなれないクロンシュタットとは、フィンランド湾のコトリン島にある都市です。
ロシアのサンクト・ペテルブルグ(旧称レニングラード)の西29キロメートルに位置します。
反乱当時はバルト海艦隊の主力基地でした。
クロンシュタットは、島の中心に海上要塞があり、今でも要塞内では砲台や防御用の兵舎などをみることができます。
1703年にロシアの初代皇帝ピョートル1世が、新しい都サンクト・ペテルブルグを守るために要塞都市を建設しました。
1720年代からはバルチック艦隊の根拠地となり、1905年と1906年にはロシアの帝政に反対する激しい反乱が勃発。
1921年にクロンシュタット反乱が起こります。
第二次世界大戦中の1941~1943年には、ドイツ軍の攻撃からレニングラードを守るために大きな役割を果たしました。
街には18世紀の建築物も多く残っていて、海の大聖堂やその辺りの景色はとても美しく静かで観光客も訪れます。
私は旅行に出掛ける際、つい人気の観光地を選んでしまいます。
日頃の疲れを癒しに行くはずが、人の多さに圧倒され更に疲れることに。
たまには海が見えて緑が多いクロンシュタットのような島で、のんびり過ごすのもいいなと思いました。
そして、今は静かなこの街の歴史を肌で感じてみたいと思いました。
まとめ
- クロンシュタット反乱は1921年3月に起きた、軍港都市クロンシュタットの水兵による反政府反乱
- ボリシェビキ政権が大規模な反乱を抑えることに成功
- 反乱後、戦時共産主義からネップ(NEP)へと変わる新経済対策が行われた
- クロンシュタットはフィンランド湾コトリン島に位置するかつての軍港都市
クロンシュタット反乱により、ソヴィエト=ロシアのボリシェヴィキ政権が、自由主義経済を部分的に取り入れ、それが国内の経済と外交に発展をもたらしました。
ネップ(NEP)の影響は日本にもあり、1925年1月に日ソ基本条約が調印されました。
これにより日本軍が北樺太から撤退し、1918年からのシベリア出兵は終了を迎えます。
日本とロシアの関係、世界とロシアの関係は現在でも複雑な状態です。
共産主義のソヴィエトでは、国内の内戦や反乱が激しかったことが分かりましたが、政治体制が異なる外交関係も、難しいということが理解できました。