こんにちは!サイトーです。
私はいい大人になった今になって、
世界史って実は最近のニュースを理解するためにも知っておいた方がよいのでは…?
と気づき始めた超・超・駆け出し世界史勉強家です。
学生の頃は先生の話す単語がチンプンカンプンすぎて、授業中は常に船を漕いでおりました…(この表現伝わりますかね?)。
なので、
「世界史のここを知りたい!」
「学生の時はダメダメだったけど、今になって勉強したい!」
と思っているそこのあなた!!
一緒に勉強していきましょう!!
さて、本日のテーマは【チェカ】です。
全く聞いたことない…(困)
ということで、今回はこの【チェカ】について一緒に勉強していきましょう。
この記事を読めば、
- チェカとは何?
- チェカはどうしてできたの?
- チェカって、最後はどうなったの?
といった流れが理解できるようになりますよ!
それではレッツスタディ☆
【チェカ】とは
【チェカ】とは、1917年12月に設置された、【反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会】の略称です。
この委員会は、ソビエト政権を反革命政権から守るために設置されたもので、【チェーカー】または【チェカ―】と表記されることもあります。
1917年に十月革命が起こって、ソビエト政権と反革命政権がバチバチになってしまったから作られたわけか。
「非常委員会」という名前の通り、当初はソビエト政権も一時的な機関と考えていましたが、反革命の行動に対して逮捕などの権限が与えられると、革命を推し進めるための重要な機関になっていったそうです。
それではその歴史について、次から詳しく見ていきましょう。
【チェカ】はどうしてできたの?-チェカの始まり―
1917年、ロシアでは十月革命がおこり、旧ロシア帝国に対抗したソビエト政権が誕生しました。
しかし、革命直後は反革命派の強い抵抗があり、ソビエト連邦はこれを取り締まりたいと考えます。
戦いが戦いを呼んでしまっているよね…😞
1917年12月20日、ソビエト政権の指導者ウラジーミル・レーニンの指示によって人民委員会直属の機関として設立されたのが【チェカ】でした。
政府に反対する勢力を排除するために作られたチェカ。
これがソビエト政権最初の政治警察です。
このときレーニンが定めたチェカの任務は、
- 誰が引き起こしたかにかかわらず、全ての反革命運動とサボタージュの計画と行動を監視して撲滅する。
- すべての反革命分子とサボタージュ分子を革命裁判にかける。またその撲滅対策を作成する。
- チェカは犯罪防止に必要な限り予備審理のみを行う。
チェカは、以下の3部に分かれる。
- 情報部
- 組織部と支局
- 取締部
となっていました。
指導者として、当時軍事革命委員会のトップを務め、政府への絶対的な忠誠心があったフェリックス・ジェルジンスキーが指名されました。
革命派も必死だったんだろうね。
大きな権力をもった【チェカ】
チェカ発足後も、ソビエト政権と反革命政権の闘いは激しさを増し、反革命政権を支持する形で諸外国も軍事干渉を開始したことによって、ロシア内戦(対ソ干渉戦争)に発展していきました。
設置当初、チェカ自体は直接懲罰行動をしない、調査活動を主とするとされていましたが、戦争が激しくなるにつれてチェカの権限も強化されていきます。
1918年3月には群、県単位でチェカを設置し、政府への引き渡しを拒んだり、食料を隠し持っていたりする農民を共産主義に反するとして逮捕していきました。
そしてついには、令状なしでの捜査と略式裁判での処刑を認めるまでになりました。
ジェルジンスキー率いる部隊は、次々と反政府と思わしき人々を捕らえては弁明の場を設けずに射殺していったのです。
うぇぇっ!!? ちょっとちょっと、やりすぎじゃない??
ジェルジンスキーがちょっと姿を見せただけで、人々はものすごい恐怖だったろうね。
証拠もないままたくさんの人々を殺し、見せしめにすることで、民衆を恐怖で支配することがレーニンの考えでした。
ソビエト政権によるこの政治的暴力は赤色テロルと呼ばれ、ロシアのいたるところで行われました。
チェカはその先導を取っていました。
1918年9月にはレーニンが【赤色テロ】政令を発令し、それまでも行われていたテロを正当化して更に積極的に反対派を抹殺していきました。
そして次第にブルジョワジーと呼ばれる富裕層や聖職者、果ては民間人まで、チェカが“人民の敵”と見なせば、証拠もないまま処刑するようになったのです。
1920年11月にはブルジョワジーへの虐殺がピークになり、11月半ばからのおよそ1か月間に約5万人の人々が銃殺されたといいます。
チェカによる激しい弾圧の様子は、数少ない生き残った亡命者によって“町は見渡す限り死体でいっぱいだった”、“首吊り町のようだった”と証言されています。
首吊り町、というのは、見せしめのために銃殺した人が街頭にかけられていたから、ということです。
チェカによって射殺された人々の数は、歴史学者のニコライ・ザヤツによって約37,300人であったと言われていますが、チェカだけでなく赤色テロの犠牲者と考えられる死者は数十万人とも120万人とも言われています。
レーニンの恐怖政治、ここに極まれり…。
内戦後の【チェカ】
1921年になると諸外国からの干渉軍も徐々に撤退し、内戦は基本的な終結に近づいていきます。
それを受けて1921年12月、第9回ソビエト大会において、チェカの活動範囲と機関を縮小すること、さらに活動における裁判機関の重視を盛り込む再編について話し合われることになりました。
その結果、1922年2月にソビエト中央執行委員会でチェカとその地方機関が廃止、縮小されることが決定しました。
また、その機能は内務人民委員部内に設立されたGPU(ゲーペーウー)に移されました。
このGPUも縮小されたとはいえ、目的は反革命分子の摘発、抹殺とされていました。
初代長官は引き続きフェリックス・ジェルジンスキーが務めました。
GPUになってからも、町の至る所に構成員を置いて監視と粛清に目を光らせ、民衆に恐怖を与える存在であり続けたそうです。
戦争は終わったのに、国民は全然安心できない生活だね。ジェルジンスキーさんが怖すぎるよ。
ソビエト政権における、反政府的な運動・思想を弾圧した秘密警察はチェカから始まりました。
そしてGPUとなり、その後も改称を繰り返しながらソビエト連邦が崩壊した1991年まで引き継がれることになります。
国が倒れるまで、思想の自由は許されなかったんだね。
まとめ
- 【チェカ】とは、1917年12月に設置された、【反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会】の略称である。
- 【チェカ】は、政府に反対する勢力を排除するために作られた。これがソビエト政権最初の政治警察であった。
- 民衆を恐怖で支配するために、チェカは証拠もないままたくさんの人々を殺し、見せしめにした。
- 内戦が終わると【チェカ】は解体されGPUという組織になった。組織は何度か名前を変えながらも、ソビエト連邦が倒れるまで民衆に恐怖を与え続けた。
チェカが行った大虐殺や、拷問の内容は気分が悪くなるほどひどいものだったよ…。
戦争が終わっても思想の自由が許されない社会が長く続いたのも驚きだったし、
その情報統制の厳しさについては今のロシアにも脈々と受け継がれているイメージがありますね。
今回はソビエトの政治警察【チェカ】について勉強してきました。
それではまたお会いしましょう!