ブレスト リトフスク条約とは何か?わかりやすく解説します!

近代史を見ていると、

「〇〇条約ってまぎらわしい名前が多くて、混乱する…」

と思ったことはないでしょうか?

私は授業の時間に面倒になってしまいました…。

今回はその中でブレスト リトフスク条約について、

  • どんな内容の条約か
  • なぜこの条約が結ばれたのか?

を説明していきます!

ブレスト リトフスク条約とは1918年3月3日にロシアと中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ブルガリア王国、オスマン帝国)との間で調印された講和条約です。

この条約により、協商国の1つであるロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、広大な領土を失いました。

条約の名前は締結された場所が由来であり、現在ではベラルーシのブレスト市にあたります。

条約が結ばれた背景やその後について、詳しく見ていきましょう。

もくじ

ドイツはなぜ条約を結んだのか?その背景


ブレスト リトフスク条約はロシアと中央同盟国との間で結ばれた条約ですが、中央同盟国の中ではドイツの動きが最も重要です。

ロシアに直接宣戦布告を行っていて、軍事力については中央同盟国の中で最大だったからです。

そのドイツですが、西はフランスと戦い、東はロシアと戦う挟み撃ちの状況に置かれていました。

この内一方のロシアと停戦することができれば、兵力をフランス側につぎ込むことができ、戦況を有利に持っていくことができます。

前門の虎、後門の狼。

どちらかだけでもいなくなってほしい、ドイツの切羽詰まった状況が想像できますね。

私は2国を相手に戦い続けただけでもすごいと思ったのですが、勝たないと意味がないですからね。

このような背景から、ドイツは講和条約を結ぶことを望んでいました。

ロシア側はなぜ条約を結んだのか?その経緯


協商国側もドイツの苦しい状況は理解していたので、挟み撃ちの体制を崩さないように、ロシアが単独で講和条約を結ばないようあらかじめ約束していました。

一国だけ一抜け!

されたら自分達が苦境に追い詰められますからね。

ですが、ロシアは1917年の二月革命でロマノフ朝の政府が倒されたことで、政治・経済が混乱し戦争を継続することは難しくなっていました。

戦争継続派、様子見をして時間稼ぎを目論む派。様々な主張がある中で、ボリシェヴィキ党の指導者であるレーニンは即時停戦を主張していました。

戦争を継続はしていたものの、前線の兵士はすっかり戦意を失っていることを知っていたからです。

私はこうしてちゃんと民衆を見ている政治家がいたことが興味深かったです。

そのボリシェヴィキ党は十月革命で臨時政府に代わり政権を握ることになりました。

長引く戦争に疲弊していた民衆の支持もこの政権奪取を後押ししました。

これにより講和条約締結に進みやすくなりました。

ここでロシアにとって良くない出来事が起きます。

支配下にあったウクライナは暴力で政権を獲得したボリシェヴィキ党を認めず、独立を宣言します。

小麦の一大生産地であり、産業の中心地であったウクライナを失うことはロシアにとって大きな痛手となります。

そのため、ロシアは懐柔策に出てウクライナの動きを抑え込もうとしました。

2022年にロシアによるウクライナ侵攻が始まりましたが、侵攻以前ウクライナは小麦の輸出量が世界5位の国でした。

現代の状況からもその豊かさが想像できますね。

戦争の継続派もこれには焦ります。

早期に講和条約の問題を片づけようと動き出しました。

1917年12月22日に和平交渉が始められました。

しかし、ロシア側は賠償金や土地の併合なしでの講和を求め、ドイツ側は賠償金の獲得と占領した土地の併合を求めたため、すぐに交渉は行き詰まりました。

ロシアは負けて交渉しているわけではないから損をしたくないし、ドイツも苦しい状況の中戦っているので利益を得たいということですね。

どっちも自分に都合の良いことを言っているなあと思いますが、これが戦争なのでしょうか…。

和平交渉が進まない中、ウクライナはロシアの許可を得ずに中央同盟国と講和条約を結びました。

ある地域が独立を宣言しても、すぐさま独立となるわけではありません。

国際社会の中で認められて初めて独立していることとなります。

講和条約を結ぶということは、相手を独立した存在と認める、ということになります。

ウクライナを独立した地域と認められちゃ困る、というのがロシアの考えです。

ちなみに、このウクライナと中央同盟国との間で結ばれた条約も、ブレスト リトフスク条約と呼ばれています。

この条約はウクライナが食料を提供することを条件に中央同盟国がロシアと戦うことを定めたため、パンの講和とも呼ばれました。

ドイツも食料は欲しいところでしたので、条約を結ぶことになります。

その結果、ロシアはウクライナと中央同盟国の合同軍に攻められ、さらに追い詰められることになりました。

攻め込まれてしまったロシアは結局、以前より悪い条件で講和条約を結ばなければならなくなりました。

条約の内容


この条約によってロシアは第一次世界大戦から離脱し、フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、カフカス地方などの領土を失うことになりました。

領土を取られたくないと主張していたのに、結局広大な面積を失ってしまいました。非常な痛手です。

カフカス地方以外の地域はドイツの支配下に置かれました。

しかし、ドイツも西部の戦況に苦しむ中獲得した地域を維持するだけの軍勢を駐屯させておくことができず、空白地帯となりました。

そのため、他国がそれぞれの地域を占領しようとする動きや、地元住民らが独立を目指す動きが出てきました。

戦場にされた地域もありますし、振り回され続けるのは嫌だ、と考えて独立しようとするのも当然かな、と私は感じました。

その後の展開は地域によって異なりました。

フィンランドはその後独立を維持。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国やポーランド、ウクライナはこの時独立したものの後にソ連に併合されます。

カフカス地方はトルコの領土となったり、イギリスの管理下に置かれたりしたところもあります。

条約締結のその後


ロシアが離脱したものの協商国は勝利し、休戦協定が結ばれます。

1919年6月28日に調印されたベルサイユ条約により、ブレスト リトフスク条約は効力を失うと定められました。

わずか8か月の条約でした。

まとめ

  • ブレスト リトフスク条約はロシアと中央同盟国の間で結ばれた条約であり、この結果ロシアは第一次世界大戦を離脱した。
  • 条約の結果ロシアは広大な土地を失った。
  • ブレスト リトフスク条約はベルサイユ条約の締結によって効力を失った。

ブレスト リトフスク条約が結ばれるまで紆余曲折あったのですね。ロシアといえば血の気が多い、というのが私にとってのイメージだったので、レーニンが即時停戦を主張していたというのが意外でビックリでした。

内容だけでなく結ばれるまでの経緯も見ると、それぞれの個性が見えてきますね。

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