バルト三国とは、バルト海に面して並んでいる3つの国の総称です。
北からエストニア、ラトビア、リトアニアの順に並んでいます。
これらの国がバルト三国という一つのくくりで呼ばれるようになったのは近代になってからです。
今ではセットで出てくるのが当たり前、という感覚なのでこれを知ったときは驚きました。
第一次世界大戦のあとロシアから独立し、第二次世界大戦中にまたソ連に併合されたという共通の出来事が起こったことで、バルト三国と呼ばれるようになりました。
今回の記事では、バルト三国と呼ばれるようになった近代以降の歴史と、それ以前の歴史について解説していきます。
では、まずはバルト三国と呼ばれるようになった近代以降の歴史についてお話しします。
バルト三国の独立
19世紀のバルト三国はロシア帝国の支配下にありました。
それが、1917年にロシア革命で支配者がいなくなったことにより1918年にそれぞれが独立を宣言します。
背景には、レーニンが1917年に“平和に関する布告”で民族自治を掲げたことがあります。
レーニンはロシア革命を主導してソビエト連邦を立ち上げ、その元首になった人物です。
社会主義についての著作を多く残し、その思想はレーニン主義やマルクス・レーニン主義といった形で受け継がれています。
「エストニアの土地はエストニア人が、ラトビアの土地はラトビア人が、リトアニアの土地はリトアニア人が統治しよう」
という考え方から独立をしたのですね。
それぞれ政治的な混乱が起こりつつも、自分達の国作りを進めていきます。
しかし、ロシアはバルト三国に対しての野心を失ったわけではありませんでした。
第二次世界大戦
第二次世界大戦が始まると三国はソ連から自分達に有利な政府を作りなさいという最後通牒を出され、それを受け入れます。
受け入れなければソ連の矛先は自分達にも向かいます。
戦おうとしても国力の差は大きく、被害が大きくなると予想されるため、それなら受け入れる方がマシだと考えての決定でした。
親ソ連の政府ができたあとは、併合されてしまいました。
またしても独立を奪われてしまったのです。
しかもソ連に従ったあとには強制労働をさせられたり、反ソ連の疑いをかけられて処刑されたりなど国民は厳しい仕打ちを受けました。
初めてで混乱しながらも自分達の国家を作ってきたのに、悔しいだろうなと私は感じました。
ソ連からの離脱と現代まで
第二次世界大戦が終結したあともソ連の支配が続き、今度は社会主義国家としての道を歩み始めます。
反体制派と見なされた人物は処刑されるなど、苦難の日々が続きました。
1980年代にゴルバチョフがペレストロイカ政策を推進すると三国の間で自由化を求める空気が広がりました。
ずっと我慢を強いられてきたバルト三国の人々にとって、もう限界だったのでしょう。
人々は立ち上がり、1989年8月23日、タリン、リガ、ヴィリニュスのバルト三国のそれぞれの首都である三都市を“人間の鎖”で結ぶ運動を行いました。
文字通り、100万から200万人の人が手をつなぎ、首都同士をつないだのです。
これまで反体制活動をした人々が容赦なく処刑されてきたことを考えると、立ち上がった人々の勇気は素晴らしいと感じました。
この勢いはもう止めることができず、1990年にリトアニアが一足先に独立宣言を行いましたが、ソ連は妨害行動を行いました。
1991年、ソ連でクーデターが起き、この動乱に乗じてラトビアとエストニアも独立を宣言します。
その後ソ連も独立を承認し、バルト三国は国連に加盟。
正式に独立を果たすことができました。
その後EUやNATOに加盟するなどしてロシアと距離を置いた外交を進めています。
しかし、国内にはロシア系住民もいますので、あまり強硬な反ロシア政策を取ると彼らの反発を招く可能性があり、難しいかじ取りが迫られています。
以上がバルト三国と呼ばれるようになってからの歴史です。
この後は、それ以前の歴史についてお話しします。
リトアニアの歴史
バルト三国の中で最初に国家ができたのはリトアニアです。
13世紀のことでした。
当時リトアニアはキリスト教を信仰していなかったため、布教を名目にドイツ騎士団が進出しようとしてきます。
彼らと戦う中でリトアニアは団結し、リトアニア大公国が成立しました。
リトアニア大公国は近隣の国と婚姻関係を結んだり、戦争を行ったりすることで領土を広げていきます。
ポーランド=リトアニア連合王国
1386年、いまだに侵攻を続けていたドイツ騎士団に対抗するため、リトアニアはポーランドと婚姻関係を結び、ポーランド=リトアニア連合王国を形成します。
この連合王国を形成するときに、リトアニアの王はカトリックの洗礼を受けたため、リトアニアのキリスト教化が進んでいきます。
このことを知った時、キリスト教を布教しようとする騎士団と戦うために連合したのに、王はキリスト教とならざるを得なかったのですから、歴史は皮肉だなぁと感じました。
1454~1466年の十三年戦争によりドイツ騎士団を配下に置き、連合王国はさらに勢力を強めます。
1569年、ルブリン連合によってポーランドとリトアニアは正式に一つの国となります。
これまではそれぞれポーランドとリトアニアにそれぞれ王がいたうえで連合関係を結んでいましたが、これからは1人の王が統治することになります。
しかし、この連合は実質的にリトアニアがポーランドに併合される形でした。
以後、ポーランド分割までポーランドと運命を共にします。
ロシアの支配下に入る
王位の継承を巡る争いや、外国との戦争で弱体化したポーランド=リトアニア連合王国は、1772年に第一次ポーランド分割が行われます。
領土が外国に割譲されることでより力が衰え、1795年の第三次ポーランド分割により完全に消滅しました。
分割された地域の内、リトアニアはロシア帝国の支配下に入ります。
ロシアはロシア語を話すよう強制するなど同化政策を進めました。
19世紀になると民族主義が高まり、独立のため蜂起しますが鎮圧されます。
私は、ポーランドと連合していた時より制約が強くなり、悲しい結果になってしまったなと感じました。
このあとは第一次世界大戦で独立するまで、ロシアの支配が続きます。
ラトビアの歴史
13世紀、キリスト教の布教を名目にリヴォニア帯剣騎士団がラトビアの地に押し寄せ、その支配を受けることになりました。
リヴォニアというのはもともとラトビアの土地に住んでいた民族に由来する名称です。
土地自体もリヴォニアと呼ばれていましたが、騎士団との戦いでリヴォニア人は激減し、代わりにラトビア人が多数を占めるようになりました。
リヴォニアは教皇の直轄地となり、テッラ・マリアナと呼ばれました。
テッラ・マリアナというのは、聖母マリアの土地、という意味です。
キリスト教徒の方にとって重要な場所だったのでしょう。
ヨーロッパの中ではバルト三国ははじっこにあり、キリスト教が興った土地とは離れているイメージなので意外なネーミングだと感じました。
リヴォニア戦争とスウェーデン・ポーランド戦争
騎士団の統治が終わりを迎えるのは16世紀です。
テッラ・マリアナを巡ってモスクワ大公国が戦争を仕掛けてきたため、リヴォニア騎士団はポーランド=リトアニア連合王国に助けを求めました。
この戦争はリヴォニア戦争と呼ばれています。
この戦争中にポーランドはスウェーデンと同盟を結んでいたので、スウェーデンもリヴォニア側として参戦します。
戦争の結果、リヴォニア騎士団は解散し、リヴォニア共和国となってポーランド=リトアニア連合王国の傘下に入ります。
しかし、これで戦争は終わらず、今度はポーランド=リトアニア連合王国とスウェーデンの間で戦争が行われ、スウェーデンがリヴォニアのほとんどを手に入れます。
この戦争はスウェーデン・ポーランド戦争と呼ばれています。
一難去ってまた一難と、住民にとっては大変な時代だと思うのですが、それほど魅力的な土地だったのかなと私は想像してしまいました。
ロシア帝国支配の時代
1700年から1721年まで行われた大北方戦争により、今度はロシア帝国に編入されることになります。
19世紀前半、ロシア皇帝アレクサンドル1世の自由主義政策によって教育水準が向上し、西欧思想が広がったことで民族意識が高まっていきます。
その中でラトビア人も自らの民族意識を強く持つようになっていきました。
それによって、以前からの支配層であるバルト・ドイツ人貴族への不満が高まりました。
バルト・ドイツ人貴族はその名の通りドイツ出身の人々で、現地の人々とは違うドイツ由来の文化を持っています。
別のルーツを持っている人々に支配されるのは嫌だという考えが強まっていったということでしょうか。
一方、ロシア帝国にとっても以前からの支配者層であるバルト・ドイツ人貴族の勢力を削ぐことは、自分たちの勢力を伸ばすためにメリットがあります。
双方の動きが合わさって、バルト・ドイツ人貴族の文化が制限されていきます。
しかし、1881年に即位したアレクサンドル3世はロシア化を推進し、バルト・ドイツ人貴族だけでなくラトビア人の文化も制限していきました。
以上の背景がロシア革命の時の独立の下地になります。
民族意識というアイデンティティを持つと、より支配されている状態が辛く感じるだろうなあと想像してしまいました。
エストニアの歴史
13世紀、ラトビアのところで登場したリヴォニア騎士団が侵略しに訪れました。
リヴォニアというのはラトビアだけでなく、エストニア南部の範囲も含む土地の名称だったのです。
南部が支配されたあとも、エストニア北部は外国の協力を受けて抵抗を続けますが、結局騎士団が勝利を収めます。
この時、騎士団はデンマークに援助を求めていたのでエストニアの一部がデンマークの領土になりましたが、統治に手が回らなくなったことなどから14世紀には騎士団に売却されました。
騎士団は交易によって利益を得て、繁栄を謳歌していましたが、その統治下にいるエストニア人は恩恵を受けることができませんでした。
ちなみに、この時発展した都市のタリン、リガがそれぞれのちのエストニアとラトビアの首都となります。
どちらの都市も世界遺産に登録されており、現在では観光名所として人気です。
写真を見ているだけでも魅力的な街並みで、私も行ってみたいです。
支配者の交代
リヴォニア戦争と、その後のモスクワ大公国とスウェーデンの間で行われた戦争により、リヴォニア騎士団が解体しエストニア全土がスウェーデンの支配下に入ります。
ちなみに、この頃スウェーデンが国力を強めた原因には、鉄と銅の輸出がありました。
特に算出される鉄鉱石の質が良く、国家で管理して貿易を行い、大きな利益を上げたそうです。
スウェーデンの統治していた時代はエストニアの学問が発展し、エストニアの人々にとっては良い時代として記憶されるようになりました。
支配を受けた時代でも、上に立つ人によって良い時代と記憶される時代があることは、私にとって印象的でした。
その後、1700年から1721年まで行われた大北方戦争により、ラトビアと同様にロシア帝国に編入されることになります。
その後の運命もラトビアと同じく、民族意識を育んでいきますが独立はロシア革命まで待たなければなりませんでした。
以上がバルト三国のそれぞれの歴史です。
まとめ
バルト三国とは
- バルト海に面して並んでいる3つの国の総称で、北からエストニア、ラトビア、リトアニアの順に並んでいる
- ロシア革命の時に独立したが第二次世界大戦の時にソ連に併合される
- 1990年にリトアニアが、1991年にラトビアとエストニアが独立する
- リトアニアに初めて国家ができたのは13世紀の時で、14世紀にはポーランドと連合王国を形成し、18世紀にロシア帝国の支配下に入る
- ラトビアはリヴォニア騎士団の支配下に入ったあと、16世紀にポーランド=リトアニア連合王国、ついでスウェーデン、18世紀にはロシア帝国の支配下に入る
- エストニアはリヴォニア騎士団の支配を受けたあと、16世紀にスウェーデンの支配下に入るが、18世紀にロシア帝国の支配下に入る
鉄道ができるようになるまでは、大量の物資や人の移動は主に水運で行われていました。
ロシアがバルト三国の土地をずっと狙っていたのも、そこが水運の入り口となるからです。
魅力のある土地だったために他国の支配を受けることも多く、苦労してきたのがバルト三国でした。
けれど“人間の鎖”のようにしっかりと自分達の意思を伝える強さも持っている国々です。
私がすごいなと思ったのは、19世紀まで独立の経験がなかったラトビアとエストニアが今では安定した国家を営んでいることです。
民族問題で対立や紛争が起きて、分裂することがあってもおかしくなかったと思います。
現代でもロシアとの関係が一番の外交課題のひとつで、そのロシアは不穏な情勢が今も続いていますが、今後もその意思の強さを見せてくれることでしょう。