五国同盟とは、1818年のアーヘン会議でフランスが四国同盟に加わって成立した、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン・フランスの大国協調の枠組みです。
ナポレオン戦争後のヨーロッパでは、革命や戦争の再発を防ぎ、ウィーン体制を維持することが重要な課題でした。五国同盟は、そのためにヨーロッパの主要国が会議を開き、共通問題を話し合う「会議外交」の中心になりました。
ただし、五国同盟は一枚岩ではありません。革命運動へ武力介入すべきかをめぐって、イギリス・フランスと、ロシア・オーストリア・プロイセンの立場はしだいに分かれていきました。
まず一言でいうと
五国同盟は、ナポレオン戦争後のヨーロッパを五大国で安定させようとした同盟です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 成立 | 1818年、アーヘン会議 |
| 加盟国 | イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、フランス |
| 前身 | 1815年の四国同盟 |
| 目的 | ウィーン体制の維持、フランスの復帰、ヨーロッパの大国協調 |
| 関連用語 | ウィーン体制、神聖同盟、四国同盟、会議外交 |
| 重要な変化 | 敗戦国フランスがヨーロッパ大国の協調体制に復帰した |
五国同盟とは何か
五国同盟とは、ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を守るために、五つの大国が協力した同盟です。
もともとは、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンがフランスの再拡大を警戒して結んだ四国同盟がありました。1818年、フランスが戦後賠償や占領問題を処理し、アーヘン会議で同盟に加わったことで、五国同盟と呼ばれる体制が生まれました。
つまり五国同盟は、フランスを押さえ込むだけの同盟から、フランスも含めたヨーロッパ大国の協調体制へ移ったことを示しています。
成立の背景
五国同盟の背景には、フランス革命とナポレオン戦争があります。
フランス革命は、自由や平等を掲げてヨーロッパの旧秩序を揺さぶりました。その後、ナポレオンがヨーロッパ各地に勢力を広げると、ヨーロッパの国際秩序は大きく崩れます。
1814〜1815年のウィーン会議では、列強が戦後処理を話し合い、ヨーロッパの勢力均衡と王政復古を軸にしたウィーン体制が作られました。五国同盟は、このウィーン体制を維持するための仕組みです。
四国同盟との違い
五国同盟を理解するには、四国同盟との違いを押さえる必要があります。
| 項目 | 四国同盟 | 五国同盟 |
|---|---|---|
| 成立 | 1815年 | 1818年 |
| 加盟国 | イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン | 四国にフランスを加えた五国 |
| 主な目的 | フランスの再拡大を防ぎ、ウィーン体制を守る | フランスを含めた大国協調でヨーロッパ問題を処理する |
| 意味 | 戦勝国の対仏警戒 | 敗戦国フランスの国際社会復帰 |
| 重要会議 | ウィーン会議後の枠組み | アーヘン会議、トロッパウ会議、ライバッハ会議、ヴェローナ会議 |
簡単にいうと、四国同盟は「フランスを監視する同盟」、五国同盟は「フランスも加えた大国協調」です。
神聖同盟との違い
五国同盟と混同しやすいのが、神聖同盟です。
神聖同盟は、1815年にロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で、ロシア・オーストリア・プロイセンを中心に結ばれました。キリスト教的原則や君主間の連帯を掲げた同盟です。
一方、五国同盟は、より実務的な大国協調の枠組みでした。国際会議を開き、フランスの処遇、革命運動への対応、ヨーロッパの秩序維持などを話し合いました。
| 比較 | 神聖同盟 | 五国同盟 |
|---|---|---|
| 中心国 | ロシア、オーストリア、プロイセン | イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、フランス |
| 性格 | 君主・キリスト教的理念の連帯 | 大国による会議外交と秩序維持 |
| イギリス | 正式には加わらなかった | 主要国として参加 |
| 意味 | 保守反動の象徴として語られやすい | ウィーン体制を運営する実務的枠組み |
アーヘン会議とフランスの復帰
五国同盟が成立した直接のきっかけは、1818年のアーヘン会議です。アーヘンはドイツ西部の都市で、フランス語名ではエクス=ラ=シャペルとも呼ばれます。
この会議では、フランスの占領軍撤退や賠償問題が処理されました。そしてフランスは、ヨーロッパの大国協調へ対等な立場で復帰します。
これは、ナポレオン戦争後のフランスが「危険な敗戦国」から「秩序維持に参加する大国」へ戻ったことを意味しました。五国同盟は、その変化を象徴する同盟です。
加盟国と立場
五国同盟の加盟国は同じ目的を共有していましたが、それぞれの立場には違いがありました。
| 国 | 立場 | 重視したこと |
|---|---|---|
| イギリス | 海洋国家・議会政治の国 | 勢力均衡と通商、過度な干渉への警戒 |
| ロシア | 東欧・バルカン方面に強い影響力を持つ大国 | 君主制秩序、保守的連帯、東方問題への関心 |
| オーストリア | 多民族帝国 | メッテルニヒを中心に革命・民族運動の抑制を重視 |
| プロイセン | ドイツ地域の大国 | 保守秩序とドイツ地域での安全保障 |
| フランス | 復古王政のもとで復帰した大国 | 国際的孤立からの脱却と大国としての地位回復 |
このように、五国同盟は「同じ目的を持つ完全な仲間」ではなく、利害の違う大国が協調する仕組みでした。
会議外交の流れ
五国同盟は、会議を通じて国際問題を処理する点に特徴がありました。この仕組みは、ヨーロッパ協調、またはコンサート・オブ・ヨーロッパとも呼ばれます。
| 会議 | 年 | 主な内容 |
|---|---|---|
| アーヘン会議 | 1818年 | フランス占領軍の撤退、フランスの大国協調への復帰 |
| トロッパウ会議 | 1820年 | 革命が起きた国への干渉をめぐる議論 |
| ライバッハ会議 | 1821年 | ナポリ革命への対応 |
| ヴェローナ会議 | 1822年 | スペイン立憲革命への対応、フランスのスペイン干渉問題 |
この会議外交は、戦争ではなく協議でヨーロッパ問題を処理しようとした点で重要です。ただし、大国だけが決定権を持つ仕組みでもあり、小国や民衆運動の声は反映されにくいものでした。
なぜ弱まったのか
五国同盟は、1820年代に入るとしだいに弱まります。理由は、革命運動への対応をめぐって加盟国の意見が分かれたからです。
ロシア、オーストリア、プロイセンは、革命や自由主義運動を危険視し、武力介入も認める立場に近づきました。一方、イギリスは大陸諸国の内政問題に共同で干渉することに慎重でした。フランスも状況によって立場を変えました。
とくに1820年のトロッパウ会議では、革命が起きた国への集団的干渉をめぐって、東側三国とイギリス・フランスの分裂が明らかになります。1822年のヴェローナ会議後、会議制度は大きく弱まりました。
自由主義・ナショナリズムとの関係
五国同盟は、自由主義やナショナリズムの広がりに対する保守的な秩序維持の仕組みでもありました。
ウィーン体制は、王政復古と勢力均衡を重視しました。しかし、19世紀のヨーロッパでは、憲法、議会、民族独立を求める動きが広がります。スペイン、イタリア、ギリシア、ベルギーなどの動きは、大国協調を揺さぶりました。
たとえば、ギリシア独立戦争や七月革命は、ウィーン体制の保守秩序が長く安定し続けるわけではないことを示しました。
世界史上の意味
五国同盟の世界史上の意味は、ナポレオン戦争後の国際秩序を、戦争ではなく大国間の会議で維持しようとした点にあります。
- 敗戦国フランスを国際秩序へ復帰させた
- ウィーン体制の大国協調を具体化した
- 会議外交によって国際問題を処理しようとした
- 自由主義・ナショナリズムを抑える保守的性格を持った
- 加盟国の利害対立により、1820年代に弱体化した
このため五国同盟は、単なる同盟名ではなく、19世紀前半のヨーロッパ国際政治を理解する鍵です。後のクリミア戦争や、イタリア・ドイツ統一の時代には、大国協調の限界がよりはっきりしていきます。
年表で見る五国同盟
| 年 | 出来事 | 意味 |
|---|---|---|
| 1814〜1815年 | ウィーン会議 | ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序を再編 |
| 1815年 | 四国同盟成立 | イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンがフランス再拡大を警戒 |
| 1815年 | 神聖同盟成立 | ロシア・オーストリア・プロイセンを中心とする君主連帯 |
| 1818年 | アーヘン会議 | フランスが加わり五国同盟が成立 |
| 1820年 | トロッパウ会議 | 革命への干渉をめぐり加盟国間の対立が明確化 |
| 1821年 | ライバッハ会議 | ナポリ革命への対応を協議 |
| 1822年 | ヴェローナ会議 | スペイン問題をめぐり会議外交の限界が表面化 |
| 1830年 | 七月革命・ベルギー独立運動 | ウィーン体制がさらに動揺 |
関連用語
| 用語 | 意味 | 関連 |
|---|---|---|
| ウィーン体制 | ナポレオン戦争後のヨーロッパ秩序 | 五国同盟が維持しようとした体制 |
| ウィーン会議 | 1814〜1815年の戦後処理会議 | 五国同盟の前提になった会議 |
| 四国同盟 | イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの同盟 | 五国同盟の前身 |
| 神聖同盟 | ロシア・オーストリア・プロイセン中心の君主連帯 | 五国同盟と混同しやすい |
| メッテルニヒ | オーストリア外相・宰相 | ウィーン体制を代表する外交家 |
| タレーラン | フランス外交官 | ウィーン会議でフランス復帰を図った |
| ギリシア独立戦争 | ギリシアの独立運動 | 保守秩序と民族運動の緊張を示す |
覚え方
五国同盟は、次の流れで覚えると整理しやすいです。
- ウィーン会議で戦後秩序を作る
- 四国同盟でフランス再拡大を警戒する
- 1818年のアーヘン会議でフランスが復帰する
- 五国同盟として大国協調が始まる
- 革命への干渉をめぐる対立で弱まる
語呂としては、「四国にフランスが加わって五国」と考えると覚えやすいです。
よくある質問
五国同盟とは簡単にいうと何ですか?
1818年にフランスが四国同盟へ加わって成立した、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン・フランスの大国協調の枠組みです。ウィーン体制を維持するために作られました。
五国同盟の加盟国はどこですか?
イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、フランスの五国です。四国同盟にフランスが加わったことで五国同盟になりました。
五国同盟と神聖同盟の違いは何ですか?
神聖同盟はロシア・オーストリア・プロイセンを中心とする君主連帯で、理念的な性格が強い同盟です。五国同盟は、フランスとイギリスも含む大国協調で、会議外交を通じてウィーン体制を運営する実務的な枠組みでした。
五国同盟はなぜ弱まったのですか?
革命運動への対応をめぐり、加盟国の立場が分かれたためです。ロシア・オーストリア・プロイセンは干渉に積極的でしたが、イギリスは内政干渉に慎重で、会議外交の足並みが崩れていきました。
確認問題
最後に、重要ポイントを確認しておきましょう。
- 五国同盟は何年、どの会議で成立したか。
- 五国同盟の加盟国を五つ挙げよ。
- 五国同盟の前身となった同盟は何か。
- 五国同盟と神聖同盟の違いは何か。
- 五国同盟が弱まった理由は何か。
参考文献・参考資料
- Encyclopaedia Britannica, “Quintuple Alliance”
- Encyclopaedia Britannica, “Congress of Aix-la-Chapelle”
- Encyclopaedia Britannica, “Quadruple Alliance”
- Encyclopaedia Britannica, “Holy Alliance”
- Encyclopaedia Britannica, “Congress of Troppau”
- Encyclopaedia Britannica, “Congress of Verona”
- Encyclopaedia Britannica, “The Concert of Europe to the outbreak of World War I”
