このページでは、世界四大文明の一つであるインダス文明で大きな歴史的意味を持つ「インダス川」について世界史の観点を含めて解説します。
インダス川はインダス文明を生み出した大河
インダス川はどこにある?
インド、イラン、アフガニスタンの3国に挟まれ、インド西部を南下してインド洋に注ぐ全長約3,000km、流域面積約116万㎢の大河。
現在はパキスタンを主流に流れている。
パキスタンの大部分が乾燥地帯のため、人口の80%以上がインダス川流域に居住。
インダス川の水は、農業・工業・生活用水として欠かせない文明を支える存在。
第二次世界大戦前まではインドだった場所。
第二次世界大戦後、分離独立が起こり、インダス川流域の地域に多くいるイスラム教徒が、インドに多くいるヒンドゥー教徒と対立し、インダス川流域は「パキスタン」として独立。
インダス川流域は、インド領だったが、現在はパキスタン領となっている。
インダス川の水源はどこ?
水源は、ヒマラヤ山脈の水。
主にカラコルム、ヒンドゥークシュ山脈とパキスタンのチベット、カシミール地方と北パキスタンのヒマラヤの雪と氷河の水。
インダス川の流量は?
季節によって異なる。
冬は大きく減少し、7月から9月までのモンスーンの時期は川に多くの水が流れ込む。
インダス川の形状は?
インダス川は、遠浅の海岸。
そして、三角形状に開いた河口部に満潮時に高い波が河をさかのぼる「海嘯」が起こる世界でも少ない川の一つ。
インダス川とインダス文明の歴史
- 最上流域:カシミール
- 中流域:パンジャブ地方
- 下流域:シンド地方
インダス文明は、パンジャブ地方のハラッパー遺跡、シンド地方のモヘンジョ=ダーロ遺跡の流域に形成された。
パンジャブは地方は、土地が肥沃で東西文化の交流地点だった。
当時としては都市としての機能が高く、排水溝設備や宝飾品など高水準の文明として発展。
インダス文明と異民族アーリヤ人
紀元前1,500年頃、異民族「アーリヤ人」は、北西からカイバル峠を越えてパンジャーブに侵入。
アーリヤ人の民族移動によって、インドは鉄器文明へ。
そして、アーリヤ人による征服活動は東に進み、ガンジス川流域に展開しながら、都市国家を形成。
その過程で誕生したと言われている代表的なものは以下のとおり。
- 叙事詩ヴェーダ
- カースト制度
- バラモン教
インドの文明や社会を創り上げる文化だ。
インダス文明の宗教
- 牛を神様とする信仰
- ヒンドゥー教のシヴァ神の原型と思われる像
- 聖樹や地母神などを崇拝
など
インダス文明の衰退期〜滅亡期
紀元前1800年頃から衰退期に入り、紀元前1500年には滅亡。
なぜインダス文明は衰退したのか?
インダス文明の衰退原因は、次の4つの説が代表的と考えられてきました。
- 異民族アーリア人の侵入
- 大洪水
- 河道遷移
- 環境影響
他にもさまざまな説がありますが、気候変動に関する興味深い説があります。
現在から5000年前以降、気候が寒冷化すると西ヒマラヤ一帯の積雪量が増加した。これとともに夏季の南西モンスーンは不活発となり、パンジャーブ平原やラージャンスターン平原などインダス川中・下流域は乾燥化した。この乾燥化の中で人々は水を求めてインダス河畔に集中した。この時、ヒマラヤから流出する河川では、積雪量の増大とともに大融水によって春先の流水量を増加させていた。これが冬作物を中心とする氾濫潅漑農業の発展を可能にし、急速に都市文明が形成されていった。インダス文明が衰退期に入る3800年前以降の気候変化の詳細は明らかではないが、この時期はユーラシア大陸が再び温暖期に入っていたと考えられ、それが春先の流水量を減少させ、それに依存した農耕社会に打撃を与え、インダス文明衰退の一因をなしたものと考えられている。
【安田喜憲「気候と文明の衰退」】【湯浅赳男「環境と文明」】
インダス文明滅亡後はどうなった?
紀元前4世紀
古代マケドニアの王としてマケドニアからエジプト、ギリシャ、ペルシャの一部に広がる広大な帝国を築いていた「アレクサンドロス大王」は、インダス川流域まで侵入。
当時のインドを分立した都市国家から統一国家へ形成するキッカケを作った。
そして、インドをはじめて統一した王朝となった。
紀元後1世紀
イラン系民族のクシャーナ人がインダス川流域に入り、クシャーナ朝を興し、インダス川流域のプルシャプラに都を築いた。
ガンジス流域で仏教が始まり、インダス上流から更に北上し、ガンダーラを仏教美術の中心地として繁栄させた。
ヘレニズム(ギリシア風の文化)と接触し、中央アジアを通って中国に伝えられた。
まとめ
インダス文明を生み出したインダス川流域は、文化や宗教などが交錯する重要な地域であったことから、世界四大文明の一つとされている。