コミンテルンの光と影:世界共産主義革命を目指した国際組織の真実

「コミンテルン」というワードを聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。

こんなタイトルの記事を読んでいるような歴史オタクのあなたならご存じかもしれませんが、私は戦争歴史シミュレーションゲーム「Hearts of Iron IV」で出てくる共産主義陣営を思い浮かべます。

しかし、コミンテルンは共産主義国の共同体であることは分かっていても、それ以外のこと、例えば、どういう経緯で生まれ、終わりを迎えたか、どういう目的で活動していたかなど、あまり詳しく知らない方は多いかと思います。

かく言う私もその一人です。

そこで、この記事では皆さんと同じ歴史オタクの私が徹底的に調べたコミンテルンの誕生から終焉に至るまでの一連の歴史について分かりやすく解説します。

これを読めばコミンテルンが追い求めた理想直面した現実果たした歴史的役割・意義について理解できることでしょう。

もくじ

コミンテルンの誕生の経緯と描いた理想

コミンテルンは世界中の労働者や被抑圧民族を解放するための共産主義革命運動を支援することを目的として設立された国際組織です。

その誕生は、20世紀初頭の激動する世界情勢を背景に、革命の理想と現実政治のはざまで起こりました。

第一次世界大戦後、世界は未曽有の混乱と社会不安に包まれていました。

戦争の惨禍は各国の政治経済システムを揺るがし、労働者階級や農民の間で急進的な社会改革を求める声が高まりました。

この時代精神を象徴するのが、「革命家集団による独裁的で急進的な共産主義革命の推進」を主張する一派、ボリシェヴィキの勝利でした。

この勝利が世界中の革命家たちに希望を与え、「世界革命」の可能性を示唆しました。

1919年3月、モスクワで開催された第1回大会において、ウラジーミル・レーニンとボリシェヴィキ指導部はコミンテルンの設立を宣言しました。

設立時の目的は以下の3つでした。

  • 世界的な共産主義運動の統一
  • 資本主義体制の打倒と社会主義社会の実現
  • 被抑圧階級と民族の解放

コミンテルンの理念はカール・マルクスの「万国の労働者よ、団結せよ!」というスローガンを体現するもので、国境を越えた労働者の連帯を推進しました。

コミンテルンの光:革命運動の国際連帯と積極的支援

初期のコミンテルンは共産主義革命の理想を強く追い求めていた時期で、世界中の共産主義運動に対して以下に示すような積極的な支援が実施されました。

  • 戦略的指導:各国共産党に対して革命戦略を提供
  • 資金援助:革命運動への財政支援
  • 人材育成:革命家の教育と訓練
  • 情報発信:プロパガンダ活動や出版物の発行

これにより、コミンテルンは世界革命と国際連帯の象徴として、多くの国で労働者や被抑圧民族の希望を集め、革命運動が勃発しました。

特にヨーロッパにおいて、ドイツやイタリアなどでの革命運動が盛んに展開され、ドイツのスパルタクス団の蜂起、イタリアの工場占拠運動などが起こりました。

これらの運動は最終的には挫折しましたが、コミンテルンの理想と影響力を示す重要な出来事となりました。

また、コミンテルンはアジアやアフリカの植民地における独立運動にも影響を与えました。

アジア各国での共産主義運動はコミンテルンの支援によって強化され、特に中国では1920年代後半から1930年代にかけて、中国共産党が急速に成長しました。

コミンテルンはこれらの国々での独立運動を支援することで、反帝国主義の立場を強調し被抑圧民族の解放を目指しました。

さらに、コミンテルンは、世界中の共産主義者を集めた国際会議を開催し、革命運動の方針を共有する場を提供しました。

特に、二回目の国際会議では、「世界革命のための21カ条」が採択され、各国の共産主義政党が従うべき原則が示されました。

この21カ条は世界中の共産主義者が共通の目的に向かって結集するための基盤となり、コミンテルンの国際的な影響力をさらに強化しました。

コミンテルンの影:内部対立とソビエトの影響

コミンテルンが世界革命と国際連帯の象徴として成功を収める一方で、その背後には次第に暗い影が忍び寄っていました。

その影とは、ソビエト連邦の影響力の肥大化とそれに伴う各国共産主義政党の意見の相違です。

コミンテルンは共産主義運動の統一を目指していましたが、やがてその活動はソビエト連邦の国家利益に従属するようになりました。

レーニンの死後、一国社会主義論を唱えるスターリンが権力を掌握するにつれて、コミンテルンは次第にソビエト連邦からの指示に従わざるを得なくなりました。

スターリンは、コミンテルンをソビエト連邦の外交政策の一環として利用し、各国の共産主義政党がソビエトの利益に従うよう圧力をかけました。

この結果、コミンテルンはその本来の目的である世界革命の推進から次第に逸脱し、ソビエト連邦の利益を優先するようになりました。

内部対立もまた、暗い影を形成しました。

コミンテルン内部でソビエトの路線に従うべきかどうかを巡って激しい対立が生じ、これが組織の結束を弱めました。

さらに、スターリンは自分たちにとって邪魔な人物を次々と粛清していきました。
その粛清の波はコミンテルンの幹部層にも波及し、幹部の多くが殺害・追放されました。

この粛清により、コミンテルンは指導力を失い、さらにソビエト連邦の意向に従う傾向が強まることになりました。

こうして各国の共産主義政党はソビエト連邦の支配下に置かれるようになり、その自主性を失っていきました。

この過程で、多くの共産主義者が失望し、コミンテルンに対する疑念が生まれました。

コミンテルンは世界的な共産主義運動の統一の象徴でしたが、次第にソビエト連邦の手先として活動を余儀なくされるようになったのです。

このようにして、コミンテルンはその「影」の部分を露呈し始めました。

共産主義政党同士の対立やスターリンの粛清により組織は弱体化し、ソビエト連邦による政治的圧力でその活動は制限され、世界革命という理想から遠ざかっていきました。

コミンテルンの「影」は、その壮大な理想が現実の政治的駆け引きによって歪められていく過程を象徴しています。

コミンテルンの終焉とその後

第二次世界大戦が勃発すると、コミンテルンの活動は大きく変質しました。

戦争によって各国の共産主義運動は厳しい抑圧にさらされ、多くの共産主義者たちが地下活動に追い込まれました。

戦時下においては、ソビエト連邦もまたナチス・ドイツとの戦いに集中せざるを得ず、コミンテルンの国際革命運動は次第に影を潜めていきました。

1943年、スターリンはコミンテルンを解散することを決定しました。

これはソビエト連邦が連合国の一員としてナチス・ドイツと戦うために、他国との協調を図る必要があったからです。

コミンテルンの存在が連合国との協力において障害となりうると判断されたため、その解散が行われました。

コミンテルンの解散は、ソビエト連邦が国際共産主義運動から一時的に距離を置くことを意味しました。

コミンテルン解散後、各国の共産主義政党は自主的に活動を続けましたが、ソビエト連邦の影響力からは完全に逃れることができませんでした。

戦後、冷戦の時代に入ると、ソビエト連邦は新たにコミンフォルム(共産党情報局)を設立し、再び各国の共産主義運動を統制しようとしました。

しかし、コミンテルンの崩壊を経験した各国の共産主義政党は自国の状況に応じた独自の革命運動を追求するようになり、国際共産主義運動は以前ほどの一体感を失いました。

それまで世界革命の象徴であったコミンテルンはソビエト連邦の利益のために利用されるようになり、最終的にはコミンテルンがソビエト連邦にとって障害となったことで解散されました。

コミンテルンが残した影響は決して小さくはありませんが、その解散により「世界革命」の理想は一つの時代の終わりを迎え、各国独自の共産主義革命を模索するようになりました。

まとめ

この記事の内容をまとめると、次のようになります。

  • コミンテルンとは
    次の3つの目的を掲げて設立された国際共産主義組織

    • 世界的な共産主義運動の統一
    • 資本主義体制の打倒と社会主義社会の実現
    • 被抑圧階級と民族の解放
  • コミンテルンの「光」
    •  世界中の共産主義運動に対して積極的な支援
    •  植民地の独立運動を支援し、被支配民族の解放を目指した
  • コミンテルンの「影」
    • ソビエト連邦の国家利益を優先
    • 内部対立や粛清により弱体化
  • コミンテルンの終焉
    • 戦争で各国の共産主義運動は厳しく弾圧
    • ソビエト連邦が他国との協調を図るため、コミンテルン解散

この記事ではコミンテルンの誕生から終焉までの一連の歴史について解説してきました。

コミンテルンは世界革命という壮大なビジョンを掲げながらも、その過程でさまざまな困難に直面し、最終的には解散に至りました。

コミンテルンの一連の歴史を振り返って言えることは理想の実現には国際的な連帯が不可欠である一方で、権力の集中や国家の利益がその理想を歪める危険性があるということです。

私はこれって現代の世界情勢にも当てはまるところがあると思うんですよね。
なぜなら、大国にとって国際的な協調は自国の利益と相反することがあるから。

例えば、世界平和という理想の実現のための組織である国連安全保障理事会では、常任理事国は拒否権を有し、自国の利益に反する決議を強制的に否決できます。

そのため、常任理事国同士で対立が起こる事案に対して何の決定もできません。

結果として、未だにロシアウクライナ戦争やイスラエルパレスチナ紛争を解決できていません。

当然、常任理事国が既得権益である拒否権を放棄するはずもなく、拒否権を廃止しようにも拒否権が発動されて実現できません。

このように世界平和の実現には国際的な連帯が不可欠である一方、常任理事国に権力が集中し、各国が自国の利益を優先することで世界平和という理想から遠ざかっていると思われます。

つまり、国連安全保障理事会は事実上形骸化していると言っても過言ではありません。

今後の国際社会において、コミンテルンの崩壊や国連安保理の形骸化という失敗を生かした組織改革や新たな国際的枠組みの形成に期待したいところです。

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