こんにちは!サイトーです。
私はいい大人になった今になって、
学生の頃は先生の話す単語がチンプンカンプンすぎて、授業中は常に船を漕いでおりました…(この表現伝わりますかね?)なので、
「世界史のここを知りたい!」
「学生の時はダメダメだったけど、今になって勉強したい!」
と思っているそこのあなた!!
一緒に勉強していきましょう!!
さて、本日のテーマは【チェコスロバキア軍団】です。
…ごめんなさい、キーワードを聞いただけでは全く想像がつきませんでした。
ということで、今回はこの【チェコスロバキア軍団】について一緒に勉強していきましょう。
この記事を読めば、
- チェコスロバキア軍団とは何?
- チェコスロバキア軍団はどうしてできたの?
- チェコスロバキア軍団って、最後はどうなったの?
といった流れが理解できるようになりますよ!
それではレッツスタディ☆
【チェコスロバキア軍団】とは
【チェコスロバキア軍団】とは、第一次世界大戦中にロシア帝国がオーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人とスロバキア人捕虜から編成した軍団級部隊のことを言います。
それではその歴史について、次から詳しく見ていきましょう。
【チェコスロバキア軍団】はどうしてできたの?-軍団の始まり―
第一次世界大戦が始まった1900年代初頭、チェコやスロバキアは領域としてはオーストリア・ハンガリー帝国から支配を受けていました。
ヨーロッパ人は大きく分けてゲルマン民族、スラブ民族、ラテン民族の3つの民族に分けられます。
支配していたオーストリア・ハンガリー人はゲルマン民族で、チェコ人やスロバキア人はロシア人やウクライナ人と同じスラブ民族でありました。
そのため、チェコやスロバキアの人々はオーストリア・ハンガリー帝国の長年にわたる支配から脱し、スラブ民族の独立を願っていたのです。
第一次世界大戦では、始めこそロシア軍との戦いを強いられていたチェコとスロバキアの軍人たちでしたが、
「ロシア人は私たちと同じスラブ民族だ!」
ということでロシア軍に積極的に投降し、ロシア軍の捕虜となることで祖国独立のためにドイツやオーストリア・ハンガリー帝国と戦うことを希望する集団が現れました。
彼らは、ロシアですでに組織されていたチェコ人部隊(チェコ義勇隊)に次々と編入されていきました。
その数は3万9千人にまで増加し、1917年9月には正式に【チェコスロバキア軍団】として編成されました。
これが、【チェコスロバキア軍団】の始まりです。
この軍団には、歩兵、騎兵隊、砲兵旅団、補助部隊などが所属していました。
【チェコスロバキア軍団】はその後もどんどん人数を増やし、十月革命後の1918年1月には5万人からなる軍団に成長していきます。
一緒に独立したかったんだね。
【チェコスロバキア軍団】はロシアの東部戦線だけでなく、西部戦線やイタリアでも戦っていた部隊もありましたが、世界史で【チェコスロバキア軍団】を見ると、ロシアの軍団について指すことが多いようです。
次の項からは、ロシアの【チェコスロバキア軍団】の歴史についてみていきます。
祖国を目指した【チェコスロバキア軍団】
1917年9月に正式に【チェコスロバキア軍団】が編成されたころ、軍団はロシア各地に散らばっていました。大きくは以下のグループです。
- 東方グループ:ロシア人のミハイル・ディテリフス将軍が指揮。
- ペンザ・グループ:スタニスラフ・チェチェク率いるグループ。元第1師団の残党。
- チャリャビンスク・グループ:ヤン・スィロヴィ率いるグループ。第1師団の4連隊を含む。
その他、連隊単位の小規模なグループも東方に散らばって存在していました。
【チェコスロバキア軍団】はオーストリア・ハンガリー帝国からの独立のために戦っていました。
ロシアはそんな歴戦の戦士たちである軍団の力を利用しながら軍を編成したのです。
しかし、10月革命後の1918年3月、ソビエト政権がドイツと講和条約を結び、ドイツとオーストリア・ハンガリーと争っていた西部戦線から離脱します。
チェコスロバキア軍団は当初の目的を失い、ロシア国内に取り残されてしまいました。
そこで、パリにチェコスロバキア臨時政府を置いていたフランスがチェコスロバキア軍団へ10数名の武官を派遣し、軍団は実質的にフランスの指揮下に置かれることになりました。
フランスはチェコスロバキア軍団をシベリア鉄道で東へ送り、ロシア極東のウラジオストックから日本、アメリカを経由して西部戦線に送ることを計画しました。
ソビエト連邦はウラジオストックへの進行と、その頃勢力を増していた反革命政権からの攻撃に備えて1列車につき600名、168挺のライフルと1丁のマシンガンを許可しました。
少ない武器しか許されなかったチェコスロバキア軍団は、徐々にソビエト政権の軍隊(ロシア革命を進める赤軍)との溝を深めていきました。
そしてとうとう、1918年5月、ソビエト政権は反革命勢力と結託することを恐れ、軍団の武装解除を要求しました。
チェコスロバキア軍団はそれを拒絶したため、ソビエト政権との全面的な対立に発展しました。
歴戦の戦士たちである軍団にとって町の警備程度の仕事をしていた赤軍は敵ではありませんでした。
シベリア鉄道を東へと進みながら、ペンザ、トムスク、サマラ、と次々と諸都市を占領していきました。
そんな中、ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国が降伏し、第一次世界大戦は終戦します。
これにより、チェコスロバキアの独立が正式に承認されました。
対戦の終了と祖国の独立のニュースが伝わると、軍団の兵たちは
「もう、おうち(祖国)に帰りたい!!」
と戦意を喪失してしまったのです。
【チェコスロバキア軍団】祖国へ―軍団の終わり―
すっかり戦意を喪失していたチェコスロバキア軍団ですが、すぐに祖国に帰れるか、というとそういうわけにはいきません。
ロシアの革命政権を打倒しようとする白軍コルチャーク政権と諸国からの干渉軍が手放さなかったのです。
その後、コルチャーク政権はウラル地帯と首都ウファを取り戻そうと戦いを仕掛けますが敗北。
白軍の力が弱まってくると、徐々に諸国からの干渉軍も手を引いていきました。
東へ逃げるコルチャーク政権とともにチェコスロバキア軍団も移動していきますが、季節は冬。
ロシアの冬は厳しく、寒さと飢えや病気に襲われ、そこに赤軍からの攻撃もあり、ボロボロになっていきました。
チェコスロバキア軍団は完全にコルチャークを見限ります。
1920年1月、コルチャークはヤン・スィロヴィ率いる第6ライフル師団に捕らえられ、身柄は赤軍に引き渡されました。
そして赤軍によって銃殺されてしまいます。
コルチャークを失った反革命政権は崩壊しました。白軍は空中分解し、ロシアの革命勢力と反革命勢力による内戦は、革命勢力の勝利が確実なものとなったのです。
チェコスロバキア軍団はそれまでソビエト政府と行ってきた休戦交渉の合意書にサインしました。
チェコスロバキア軍団はソビエト政府にコルチャークの身柄と金を差し出す代わりに、祖国へ帰るための機関車と車両を手に入れたのです。
1920年3月、全てのチェコスロバキア軍団がイルクーツクに到着し、さらに列車でウラジオストックに到着しました。
ウラジオストックからはアメリカ、イギリス、日本、ロシア、中国の輸送船を使い、長い旅路を経て祖国チェコスロバキア共和国へ帰還したのです。
順次軍団は帰国の途に就き、最後の軍団がウラジオストックを出発したのは半年後の9月のことでした。
チェコスロバキア軍団のロシアからの出国に伴い、双方で順守された合意も失効し、これで長かったチェコスロバキア軍団の戦いも終わりとなりました。
まとめ
- 【チェコスロバキア軍団】とは、第一次世界大戦中にロシア帝国がオーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人、およびスロバキア人捕虜から編成した軍団級部隊のこと
- 【チェコスロバキア軍団】は祖国の独立を願う軍人が、同じスラブ民族であるロシアに積極的に投降してロシア軍とともに戦うためにできた
- 【チェコスロバキア軍団】はオーストリア・ハンガリー帝国と戦うためにロシアを東に進んだが、ロシアの内戦に巻き込まれる形で赤軍と戦ったり白軍と戦ったりした。
- 東方への移動の間に第一次世界大戦が終戦して祖国の独立が認められ、軍団の初めの目的であった“チェコスロバキアの独立を勝ち取る”ことには間に合わなかった。
- 勢力を弱めたロシアの反革命政権を見限り、赤軍と合意することで祖国に帰ることができた。
今回は【チェコスロバキア軍団】について勉強してきました。
無事に帰国できた軍人の多くは、独立を果たしたチェコスロバキア共和国でまた軍人として力を発揮したそうです。
それではまたお会いしましょう!