誰しも母親から生まれ、可愛い幼少時代を過ごして、楽しい子供時代を送ります。
人生の別れ道は家庭環境で変わってくると思います。
例えば、両親が医者だとしたら医者の道を目指す選択肢が生まれます。
父親が警察官の息子は…警察官を目指すことなく他の道を歩みました。
誰もが親と同じ道を歩むわけではないですが、将来を探るときの選択肢にはなる。
それはきっと世界共通なのではないのでしょうか?
そんな中、私が関心のある第二次世界大戦下のロシアには、今の時代と同じ環境はあったのか、戦争を前面に出している時代も子供は人生への選択肢を与えられていたのだろうか?と考えてしまいました。
そこで、1人の男性に焦点を当て、戦時中の彼の生き様を探り幸せという言葉がふさわしい人生だったのか?を見ていきましょう!
そしてこれを読んだあなたも現代と比較した上で自分の幸せ度合いを一緒に探してみませんか?
アレキサンドル・ケレンスキーという男
1881年ロシア帝国で誕生し、中流階級の教養ある家庭で生まれました。
まず、裕福な家庭で育ったことは将来への選択肢が豊富なことを意味していると思います。
父親は地元の学校の校長をして、学問の必要性をケレンスキーへ教えてきました。
父親のおかげで文武両道の学生時代を送っていました。
学生時代は優秀な成績を収め、弁護士になりました。
個人的には歴史に名を残す人物には金持ちが多く、小さい頃から人生の選択肢が広がっていたからだというイメージがあります。
貧困の生活から努力を重ね改革者になった歴史上の人も数多くいますね。
そんなとき私は
「努力は人を裏切らないという言葉があてはまる!」
としみじみ痛感します。
彼は改革の為に協力をしてくれる働く人々への支援も強化しました。
また、『ブレヴェストニク』という新聞を発行し部数とともに影響力を拡大させたが、かえって警察の目につき、家宅捜索なども受けたのです。
“出る杭は打たれる”という言葉通りですね。
この時点での彼は自分の決めた道を突き進み、充実した日々を送っていたと思います。
政治家としての人生
1912年にケレンスキーは政治家に登場しました。
確かに日本でも弁護士から国会議員になった方もいますよね。
私の中では、弁護士が一概に正義とは思えず、国会議員となったから国の為に動いてくれるというイメージは、今の国会議員のおかげで感じなくなっています。
さて、そう思う私の政治家への偏見から比べて、ケレンスキーはどんな政治家として動き出したのかとても興味が沸いてきました。
ロシアの民主主義改革に推進する役目を担い、めきめきと実力を発揮しリーダーとしての地位を確立してきました。
やはりできる人はできるのか!
流れにのっている時は運も味方になるものなのですね。
この時代のリーダーになるということは相当な信念をもって議員や市民を味方にしたことでしょう。
当時、第一次世界大戦がはじまった際にケレンスキーはロシアの参戦に反対してきました。
戦争反対と言えばレーニンですね。
彼も自身の革命を遂行するための停戦を提案した1人でした。
更なる革新
1915年末に肝臓の疾患で治療が必要となり、スウェーデンへ向かい1年の治療後帰ってきました。
その後同年8月6日に首相となり内閣を組織しましたが、必ずいる反対組織の連中が退陣を要求する事態が起こりました。
しかし、ケレンスキーからの要求を受けた武装労働者たちが反革命クーデターを抑え込んだのです。
やはりケレンスキーはもっていますね!
日本でクーデターなるものは何年前が最後だったのでしょうか?
後先考えず、今を生きた人々が不満をあらわにしていた時代がありました。
現代ではSNSに匿名で不満や批判を書き込み、憂さ晴らしをしてすっきりといった具合でしょうか?
時代の流れは、生まれて約半世紀の私もひしひしと感じることがあります。
その変化に期待するよりも、寂しさや切なさを感じたり、昔はよかったなと思い返す事が多くあります。
ケレンスキーは皇帝への不満や様々な変化に直面しながらも首相として走り続けました。
負の連鎖
最前線で活躍をしてきた彼ですが、徐々に暗雲が立ち込めてきました。
臨時政府の要としての決断が、彼の改革への歯車を狂わせてきたのです。
いつまでもヒーローではいられないのでしょうか?
重大なミスがロシアの第一次世界大戦への参戦です。
「あれ?ケレンスキーは参戦へ反対していたのに?」
と疑問がでてきました。
振り返ってみると、病気で療養中にドイツの勢力に立ち向かうために参戦を決意したとあり、決意には相当の覚悟があった事でしょう。
やはり、この判断は国民の批判の標的になり徐々に政治基盤が崩れ始めました。
更に、信頼をしていたコルニーロフ将軍を解任したことで敵対勢力の思うつぼとなり弱体化が進んでしまった。
焦れば焦るほど余裕がなくなり、権力の変化も同盟者さえも遠ざけてしまい、軍隊からの批判や敵味方の判断もできなくなったことで孤立し始めました。
祖国を追いやられ、ロシアの未来に対する自身の夢を果たせず政治の舞台から姿を消しました。
“失敗は成功の基”といいますが、できる事とできない事があります。
視点を変える余裕があれば、彼ももう一度復活できたのではないかと思いました。
まとめ
アレキサンドル・ケレンスキーとは
- 裕福な家庭に生まれ、文武両道で弁護士となった
- 更なる躍進で政治家となりリーダーシップを発揮していった
- 病魔に打ち勝ち、首相の座に就きどんどん飛躍した
- 周りが見えなくなることで負の連鎖に足元をすくわれた
裕福な家庭に育ち、何不自由なく勉学に励める環境にあり、弁護士から政治家、首相になりあがった彼の人生は一見、“成功者”や“幸せ者”に見えますね。
その間に様々な葛藤や戦いがあったはずですが、昔は男尊女卑が根強く、“男は仕事ができてなんぼ”の時代だったので、苦の中に幸があったと思います。
しかし、世の中十人十色で賛成する者もいれば、反対する者も必ず存在します。
彼も油断することなく突き進んでいれば、まだまだ成功者でいたと思います。
革命者が亡命者になった後も様々な国で革命活動を実施し、ロシアの民主的な活動に希望を持ち続け1970年に生涯を終えました。
「幸せとはなんでしょう?」
今の時代に例えると、“公務員になれば安泰だ”という考えと同じでしょうか。
そしてニュースでも目にする警察官などの不祥事について、せっかく公務員になれたのにもったいないと多くの人が思うでしょう。
しかし、非常勤のパートやアルバイトで好きなことで収入を得て輝いている人、収入より夢に向かって安定より大切なものを見つけている人はキラキラしています。
ケレンスキーは、幸せから一気に奈落へ突き落された歴史があります。
しかし、落ちたから不幸なのでしょうか。
一般的にマイナス思考は不幸せという解釈が妥当かもしれませんが、ここで“失敗は成功の基”が生かされています。
彼は亡命国でも何度も失敗し、様々なことに挑戦し続け人生を全うしました。
亡くなった今、彼は幸せだったと思います。
ここまで読んだあなたも何かで収入を得て、何かに向かって努力をしていると思います。
世間一般的な幸せの基準は自分には不要だと私は思います。
人と比べてもそれぞれ抱えている悩み、不満は誰にも分かりません。
同じ時間を送るなら笑って過ごし、やりたいことをやって、失敗しても更なるチャンスととらえてみてください。
第一次世界大戦や数々の戦争を乗り越えた現代は、今の幸せに感謝し、何かを理由にして諦めるのではなく、人生楽しみたいと思いました。