ドイツ共産党がキーワード!!ドイツ政治史をのぞき見してみよう

ドイツの政治史を知るうえで、『ドイツ共産党』はキーワードとなりますが、どのような政党かご存じでしょうか?
ちなみに写真は国旗たなびくドイツの国会議事堂です。

ドイツ共産党、世界史の授業でなんとなく聞いて知っている単語だとは思いますが、

「実際に説明するとなると、あまりよくわからない…!」

という方が多いのではないでしょうか…?

そこで今回はドイツ共産党とドイツ政治史の関わりについて、お伝えしたいと思います。

ただ、政治や歴史の話はなんだかつまらなくなりがちと思っている人は多くいるのではないかと私は思っています(笑)。
ということで、エピソードをかいつまんでできるだけやさしく書いています。

もっと共産党のことやドイツ史を知りたい!という方は更に他のWeb記事や文献を参考にしてくださいね。

もくじ

共産主義と社会主義の違いって?社会主義運動とドイツ共産党

ドイツ共産党はドイツ社会主義運動の流れの中で登場した政党です。

「共産党は共産主義なのでは?社会主義とはどう違うんだろう?」

…と思いませんでしたか?

共産主義と社会主義の違いについてはあいまいなところがあり、現在ではほぼ同じような意味でとらえられているようなところがありますが、社会主義運動のあった時代は違ったようです。

社会主義も共産主義もザックリいうと、皆が働いて稼いだ金は皆で等分に分けよう!という考え方です。

社会主義では利益の管理と分配は国が行ないますが、一方で共産主義は利益を管理するのは国でなくてもいいという考え方です。

ドイツでは1840年代にドイツ産業革命が起こりましたが、それによって工場を経営する資本家階級(ブルジョワジー)と工場で働く労働者階級(プロレタリアート)に別れました。

労働者階級の人たちは資本家階級に支配され、長時間、重労働、低賃金で働いていました。

「一部の人たちだけがお金を持っていて自分たちを奴隷のように働かせるような社会はおかしい!」

と労働者階級の人は思っていたでしょうね…。

資本のある人と、ない人とで貧富の差が生まれることで、幸せでない人が多数現れるという問題が生じてしまったのです。

そこで、資本を国のものとしてそれを管理することで、みんなが利益を平等に得られる体制にしようという社会主義の考え方が生まれたのです。

そして、社会主義のさらに理想的な思想としたものとして共産主義が生まれました。

この共産主義の思想や見解をまとめたものが1848年のマルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』です。
写真の銅像の人が著者の一人であるマルクスです。

これを出発としてドイツで本格的な社会主義運動が始まるのでした…!

 

戦争反対!スパルタクス団は後のドイツ共和党

社会主義運動の中でやがてドイツ共産党が誕生することになるのですが、その前身となった団体がありました。
それは、第一次世界大戦中に戦争反対の立場をとったスパルタクス団という名前の団体です。

1890年代になる頃にはドイツの工業化がさらに進み、労働者階級の人口が増えていきました。
そのため社会主義政党は支持者が増え、第一党となって盛り上がりを見せました。

そんな中、第一次世界大戦が勃発してしまいます。
その時の社会主義政党であった社会民主党は戦争をめぐって二つのグループに分かれてしまいます。

一つは

「戦争に勝とう!祖国を守ることこそが労働者の利益につながるからね!」

という戦争支持派です。

もう一つは、

「戦争したって結局金持ちが儲かるだけで労働者はもっと辛くなるじゃん。

だったらグローバルに考えると戦争しない方がよくない?」

という戦争反対派です。

全く正反対な意見なので当然二つのグループは対立し、やがて分裂することとなります。

戦争支持派が多数派なのに対して、戦争反対派は少数派でした。
この戦争反対の少数派が結成したのがスパルタクス団です。

彼らは反戦を掲げて党勢を伸ばし、やがては一方の社会民主党(多数の戦争肯定派)を脅かすようになりました。

ちなみにスパルタクス団と言う名前は共和制ローマの剣闘士スパルタクスが由来とされているそうです。

古の奴隷解放に立ち上がった勇敢な戦士の姿を自分たちと重ね合わせたのでしょうね。

戦争をあきらめろ!ドイツ革命の中で誕生したドイツ共産党

第一次世界大戦のために国民の生活が苦しくなると、ドイツ革命が起こりました

革命の中でスパルタクス団はついに『ドイツ共産党』という新党を成立させたのでした。

第一次世界大戦は長引き、国をあげての総力戦となったために国民の生活には深刻な影響が現れ始めます。
主食である小麦やジャガイモが高騰し、飢饉が発生してしまいました。

こうして戦争反対の声が強まり、スパルタクス団は兵士や労働者に戦争反対を盛んに働きかけました。

1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱が起きます。
水兵たちが戦争への出撃を拒否した反乱を起こしたのです。

反戦の声は全国に広がり、各地に労働者と兵士の評議会が生まれました
これが、ドイツ革命が始まりです。

革命を受けてドイツ帝国政府は戦争を続けることを諦めました。
当時の皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、オランダに亡命したのでドイツ帝国は崩壊します。

そして、ドイツ共和国の臨時政府が社会民主党によって運営されることになります。

しかしながら、臨時政府の実権を握った社会民主党はお金持ちの資本家や軍の一部と癒着した保守政党に変わってしまったのです…!

権力を握ってしまうと人や組織って変わってしまうんですね…。

これでは社会主義運動が目指した社会はやってきません。
そこでさらに、政府への反対運動が起こるようになりました。

ベルリンでは共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出すという惨事まで起きてしまいます。

そして、1918年12月30日ベルリンでスパルタクス団の党大会が招集されるのですが、ここでドイツ共産党が成立することとなったのです!

その中心となったのはカール・リープクネヒトと共にスパルタクス団を指導したローザ・ルクセンブルクです。

彼らはロシア革命にならって一気にドイツでも革命を実現しようとして1919年1月5日、武装蜂起に踏み切りました。

対するドイツ社会民主党政権は、軍と結託して革命を阻止しようとします。

反革命義勇軍にカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは捕らえられ殺害されてしまいます。

ドイツ革命は武力によって鎮圧され、ドイツの社会主義革命は挫折してしまったのでした。

みんなの生活に大打撃!世界恐慌の到来とドイツ共産党

世界恐慌下のドイツでは、共産党は困窮した人々の生活と権利を要求して戦いますが、革命を恐れる資本家階級はナチ党に期待を寄せるようになります。

革命には失敗したドイツ共産党でしたが、第一次世界大戦後もそれなりに存続していました。
インフレなどで生活が苦しい労働者層がなくならないので、彼らの支持を受けて力をつけていたのです。

20年代のドイツ共産党は、国際的な共産主義の人たちと連携を強めると同時に、国内でも支持を得て議会でも議席を獲得するようになっていきました。

一方では共産主義を攻撃するファシズム勢力が、資本家階級をはじめとする国民の不安を煽って支持を拡げていきます。

そんな国内の政治情勢が不安定な中、追い打ちをかけるように1929年に世界恐慌が発生しました。
悪いことが重なるときは重なるものなのですね・・・。

ドイツ経済はあっという間に深刻な不況に陥ってしまいます。

共産党は困窮した人々の生活と権利を要求して、ストライキなどを起こして戦いました。
それに対して、今まで以上に資本家階級は共産主義革命を恐れて警戒するようになっていきます。

そして、共産党に反対するヒトラーのナチ党に期待を寄せるようになっていくのでした。

恐怖で人心掌握!ナチスによる独裁政治とドイツ共産党


ドイツ共産党はナチス政権下で活動を禁止されてしまうことになってしまいます。
世界恐慌で混乱した後、ドイツと共産党はどうなってしまったのでしょうか…?

1932年の選挙で共産が第4党となったのに対してナチ党は第1党となり、同じ年にはヒトラー内閣が成立しました。

権力をモノにしたヒトラーのナチ党は、その勢力を確固たるものにしようと考え、共産党を追いだす陰謀を企てます
そこで発生したのが国会議事堂放火事件です。

1933年227日にドイツ国会議事堂が炎上してしまい、発生直後に共産党員が実行犯として逮捕されてしまいました。

この事件は、共産主義者がドイツで暴力的な革命を起こそうとしたという印象を与え、国民は共産党に対する恐怖心を植え付けられたのでした。

ヒトラー内閣はこの火災を共産党の一斉蜂起の合図とみなし、翌日には大統領緊急令が出されます。

これは、『共産主義のやつらが暴れないようにしてやる』という名目なのですが、内容としては

「国民の君らは基本的人権はしばらくないからネ」

というものでした。

つまり、秘密国家警察(いわゆるゲシュタポ)が『国家の敵』とみなされた人を実際の犯罪行為がなくても強制収容所に送ることができるようになったのです。

写真は現在のアウシュビッツ収容所ですが、すっかり観光地となっているようですね。

当時の恐ろしい状況が想像できません。

この緊急令はその後も続き、対象についても共産党員以外の人々にまで拡大されることとなりました

1933年10月までに約10万人の人々が捕えられ、そのうちの500600人程度が殺害されたと言われているそうです。

恐怖によって基本的人権を制限し、反対派を抑圧する、まさにファシズムの典型的手段といえます。

人心のコントロールに長けたヒトラーならではのやり方ですね。
この時代のこの社会てに生きていた人たちの生活への不安や恐怖は計り知れません。

ドイツ共産党は、多数の党員が拘束されていき、ついには解散命令を受けることになってしまいます。

その他の政党も解散が続き、新政党結成までもが禁止されてしまします。
ナチ党の一党独裁体制が成立したのです。

こうしてドイツ共産党は、ヒトラー政権下の国内で合法的な活動が禁止されることとなりました。
ある人たちは地下に潜って活動し、またある人たちは党指導部はソ連に亡命してソ連共産党に参加しました。

まるで小さなソ連!東ドイツと戦後のドイツ共産党

第二次世界大戦後の東ドイツで、かつてのドイツ共産党は一党独裁体制をとっていました。

戦争が終わり、ナチス政権が崩壊した後のドイツと共産党は一体どうなったのでしょうか?

第二次世界大戦が終わった後、ドイツは東西に分割されたのは皆さんご存じかと思います。

写真はドイツを分断していたベルリンの壁の崩壊後、落書きをされてたたずむ姿です。
派手な落書きが一段と哀愁を漂わせる姿にしていますね…。

東ドイツではソ連の主導権が確立したので、戦時にソ連へ亡命したドイツ共産党員は東ドイツへ戻りました。

戻った共産党の指導者たちは、かつて対立していた社民党を併合してドイツ社会主義統一党と改名しました。
共産党単独では国内の支持が得られなかったので、ソ連の軍事力を後ろ盾にして強制的に行なったようです。

社会主義統一党はかつてのドイツ共産党を継ぐ政党として、ドイツ民主共和国(東ドイツ)で一党独裁体制をとりました。

その後、長期にわたって権力をもち、やがて党内の官僚たちが自己中心的な政治を行なう状態となります。
人間は権力をもつとやっぱり変わってしまうものですね。

そして来る1989年には東欧革命が起こります。

社会主義運動はついにその終焉を迎えたのでした。

まとめ

  • 共産主義は社会主義の理想的な思想でドイツ共産党の背景はドイツ社会主義運動です。
  • ドイツ共産党の前身となったのは戦争反対の立場をとったスパルタクス団で、ドイツ革命の中でドイツ共産党が誕生しました。
  • ヒトラー政権成立後、ナチスの企てによりドイツ共産党は活動を禁止されました。
  • 第二次世界大戦後は東ドイツでドイツ共産党の後継政党が活動しますが、東欧革命により社会主義運動は終わりを迎えました。

ドイツ共産党は、労働者たちの幸福のためにいつも闘っていたんですね。
人々が苦しい生活の中で、必死に闘おうとしているその熱い魂を私も忘れないようにしたいと思いました。

そして自分で記事を書きながら、 

「産業革命以降のドイツ政治史はドイツ共産党がカギを握っているんだな~。」

と感じました。

ドイツ政治史はまだまだ奥が深いので気になった方は調べてみてくださいね。

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