みなさま、こんにちは。この記事の筆者の松浦です。
今回の記事では歴史の授業でもよく出てくる平和に関する布告の解説を行います。
私は世界史の中でもヨーロッパの現代史を特に好むので、この記事を書くこととなりました。
ソビエト政権が最初に示した外交方針として有名な布告を、出されたタイミングからそれに対する列強の動きまで解説いたします。
学校でこれから学ぶ予定の方はもちろん、復習したいという方にもおすすめです。
どうか、最後までお付き合いください。
平和に関する布告とは?
平和に関する布告は、第一次世界大戦中に現在のロシア地域で権力を握ったソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)の指導者、レーニンが出した布告です。
その内容は列強各国に衝撃を与えましたが大半の国には黙殺されました。
凄惨な第一次世界大戦と十月革命
布告が出された当時は第一次世界大戦の真っ最中でした。
悲惨な塹壕戦や毒ガスなどの新兵器を用いた戦闘が繰り広げられ、死者は1000万人以上にのぼった戦争です。
大戦開始からしばらくはロシア帝国(ロマノフ朝の皇帝が統治した、現在のロシア地域にあった国)が戦争を続けていましたが、国民の負担が重くなって不満が増す中でソビエトが組織され、力を持つようになります。
その後の二月革命で皇帝は退位させられて帝国は崩壊し、自由主義者中心の臨時政府が成立しました。
しかし、臨時政府も戦争継続を決めたことで戦争中止を唱えたソビエトと対立し、最終的にはソビエトに権力を奪われ、ソビエトにすべての権力が集まることになります(十月革命)。
ここでソビエト政権が成立していなければ、布告も出なかったことでしょう。
無賠償・無併合・民族自決
十月革命中の1917年10月25日には全国ソビエト大会が開催されて、レーニンたち政治家も集まっていたのですが、この場でレーニンが発表したのが”平和に関する布告”でした。
“無賠償”、”無併合”、”民族自決”に基づく即時講和を参戦国すべてに求めたものです。
- 無賠償…参戦国から賠償金を取らない
- 無併合…参戦国の領土を併合(ある国の領土を他国の領土に組み入れること)しない
- 民族自決…世界の各民族はそれ自身の手でその未来を決定すべきである
つまり、
「経済的な損害とかどうでもいい、とにかくいますぐ戦争やめろ」
と言ったことになるのです。
協商国・中央同盟国はどうしたか
即時講和を主張したソビエト政権ですが、この主張は協商国側にはほとんど無視されました。
1917年末にはアメリカが協商国側で参戦しており、戦況が協商国有利に傾いていました。
私の考えですが、イギリス・フランスでは中央同盟国の盟主たるドイツを脅威とみなす声も大きかったため、ドイツから賠償金や領土を取って力を奪おうと考えたのでしょう。
実際戦後の講和条約(ヴェルサイユ条約)では1320億マルク(200兆円以上)という法外な額の賠償金が課され、ドイツの領土も縮小しています。
この賠償金はドイツを経済的に苦しめ、世界恐慌後の大不況とナチスの台頭につながりました。
その結果として第二次世界大戦が引き起こされ、ヨーロッパはまたも荒廃することとなります。
また、平和に関する布告の中で、中央同盟国のドイツ及びオーストリア=ハンガリーに対して3か月の休戦が提案されています。
すでに戦況不利となっていたドイツは、これに応じてソビエト政権と停戦交渉を行い、その結果ブレスト=リトフスク条約が締結され、東部戦線はひとまず休戦となりました。
もっとも、ブレスト=リトフスク条約の締結はロシアが相当押し込まれてからでした。
臨時政府が戦争継続ではなくて離脱を主眼に置いていれば、戦後の領土は少しだけ多い状態で残ったでしょう。
ウィルソンの”十四か条の原則”
協商国に加入したアメリカですが、すべてにおいて英仏に追従するわけではありませんでした。
それが最も如実に表れたのが戦後処理における対応です。
ドイツ側に課す賠償金について協議したときも、英仏より少ない額を提示するなどしています。
それでもあの額の賠償金が課されたことから、英仏の、特にフランスの反独感情がどれだけ大きかったかが窺えます。
そして、当時のアメリカ大統領であったウッドロウ・ウィルソンが”十四か条の平和原則”を発表し、以下の内容を主張しました。
- 和平交渉の公開、秘密外交の禁止
- 公海航行の自由
- 関税の撤廃及び対等な通商関係の樹立
- 各国の軍備の縮小
- 列強植民地に対する公正な措置
- ロシアからの撤兵、ロシアの統治体制の自由
- 中立を侵犯されたベルギーの主権の回復
- アルザス=ロレーヌ(エルザス=ロートリンゲン)のフランスへの返還
- イタリア国境の再調整
- オーストリア=ハンガリー領土内の各民族の民族自決
- バルカン諸国(セルビアなど)の独立保証
- オスマン帝国内の諸民族の自治保障
- 旧ロシア帝国などがその領土をもっていたポーランドの独立
- 国際連盟の確立
少なくとも民族自決に関しては同じような内容を規定しているようにも見えますが、この原則にはアメリカ・イギリス・フランスなどの協商国側植民地に対する対応が書かれていません。
民族自決について規定されたのはオーストリア=ハンガリーやバルカンなどヨーロッパの圏内のみでした。
後に英仏の植民地(アジア・アフリカ)でも民族自決を求める運動が盛んになりましたが、本国政府に弾圧されるなどしています。
またこの原則が発表されたのはソビエト政権の布告に対抗するためという意味合いも強く、戦後処理の主導権を握りたいという強い意思が見え隠れします。
これに対して、形式上、ヨーロッパ圏内・圏外関係なくすべての民族に対する自決権を認めたのが”平和に関する布告”です。
ただ、形はどうあれ米露が民族自決権を認めたのは大きく、アジア・アフリカ地域の独立運動につながっていきます。
平和に関する布告の矛盾
結局のところ、英仏ら協商側は布告を無視した挙句ソビエト政権への干渉戦争まで行いました。
中央同盟国側とは休戦が成立したため、ソビエト政権は旧ロシア帝国内の反革命勢力や協商側の軍との戦いに全力を注ぐこととなります。
また、十月革命後に独立を宣言したポーランドやウクライナとの戦争も起こりました(ポーランド・ソビエト戦争、ウクライナ・ソビエト戦争)。
ここで注目すべきなのは、ロシア帝国に取り込まれていた別民族(ポーランド人、ウクライナ人など)が独立を宣言したにもかかわらず、これを認めずに侵攻した点です。
この行いは、民族自決を認めた布告と明らかに矛盾しています。
また、旧ロシア帝国領のフィンランドで起こった内戦に、一方の勢力を支援して介入しています。
これもまた、平和に関する布告に反する行為と言えるでしょう。
まとめ
- 平和に関する布告はソビエト政権によって発表された
- ソビエト政権はロシア革命を通じて成立した
- 平和に関する布告中では無賠償・無併合・民族自決が主張された
- 協商国は布告をほぼ無視したが中央同盟国側とは休戦が成立した
- アメリカはソビエト政権に対抗して十四か条の平和原則を発表した
- ソビエト政権は布告と矛盾する行動をとった
“平和に関する布告”は民族自決を認めたという点では画期的なものと言えますが、肝心のソビエト政権がそれに反する行いをしていたとあっては、手放しで評価することはできません。
ポーランドやウクライナとの戦争後のスターリン時代にも、バルト三国の強制編入やルーマニアに対するベッサラビア要求、果ては戦争後に独立を果たしたポーランド・フィンランドへの侵攻など、領土欲を隠しもしない悪辣な行為が多々ありました。
また、冷戦期にもアフガニスタンへ侵攻し、手痛いダメージを負って撤退しています。
私は、結局ソ連というのは最初から矛盾と嘘に満ちていた国家だったのだな、と思います。
頭が皇帝から共産主義者にすげ変わっただけで、それ以外は何も変わっていなかったのです。
建国当時から真に民族自決を貫いていれば、と思うばかりです。