みなさま、こんにちは。
この記事の筆者の松浦です。
今回はソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)の政治家であったレフ・トロツキーについて、その思想から活躍、生涯までを解説していきたいと思います。
私は世界史の中でもヨーロッパの現代史を特に好むので、この記事を書くこととなりました。
旧東側諸国のリーダーであったソ連の建国に大きく関与したトロツキーですが、教科書に登場する機会は多くありません。
むしろ、彼の政敵となったスターリンのほうが知名度が高いと言えるでしょう。
トロツキーが何をしたのか忘れてしまった、あるいは知りたいという方におすすめです。
どうか、最後までお付き合いください。
レフ・トロツキーという名前
レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー(以下トロツキー)はソ連の政治家であると同時に、ボルシェビキの革命家、思想家でもあります。
トロツキーという名乗りのほうが圧倒的に有名ですが、本名はレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインといいます。
このように本名ではなく別の名前(筆名など)が有名なソ連の政治家たちは割と多く、レーニンやスターリンはその筆頭であったりします。
わざわざ筆名を用いているのは、本名がバレたら困るからでしょう。
この記事での呼称は、トロツキーで統一いたします。
革命活動への参加
1879年、現在のウクライナ(当時はロシア帝国領でした)南部でトロツキーは生まれました。
ユダヤ人の農民を両親にもつ彼はドイツ人学校で学んだのち、革命運動に身を投じていくことになります。
ロシア帝国内では社会主義者たちの取り締まりが行われており、マルクス主義者として活動していた彼も例外なく投獄・流刑されています。
トロツキーという名前は、ウクライナの都市・オデーサで収監されていたときの看守の名から取ったものだったようです。
1900年にシベリアへの流刑を言い渡されますが、オデーサでの獄中でロシア社会民主労働党の一員となったトロツキーは1902年にシベリアから脱出し、社会民主労働党の機関紙「イスクラ」の発行拠点となっていたロンドンに向かいます。
翌年に社会民主労働党がボルシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)に分裂した際はメンシェビキに属し、ボルシェビキに属したレーニンらとは対立。
ほぼ絶縁状態となりました。
ロシア革命の貢献者
1905年、トロツキーはメンシェビキからも離脱してひそかにロシアに入国し、サンクトペテルブルクにあったソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)を指導するようになりました。
同年12月には逮捕されるものの脱走してウィーンに亡命し、各地を転々としたのち、ロシア革命が起こった1917年には再びロシアに帰国しています。
同年7月にはボルシェビキに入党し、十月革命では臨時政府の打倒とソビエトによる権力奪取に貢献しました。
その後は外務人民委員(外相にあたります)に就任し、ドイツ帝国との和平交渉を行ってブレスト=リトフスク条約を締結し(当時は第一次世界大戦中で、ロシア帝国はドイツ帝国と交戦していました)、ソビエトの軍である赤軍を組織してロシア内戦(旧ロシア帝国内の反ソビエト勢力とソビエト政権との内戦)終結に大きな功績をあげました。
私個人は、派閥を変えつつもいろいろと仕事をした人、と解釈しています。
失脚と国外への亡命
しかし、1924年のレーニンの死によって、党内でのトロツキーの立ち位置も変動をはじめます。
当時のソ連にはソ連共産党政治局(正式名称はソビエト連邦共産党中央委員会政治局)というソビエトの方針決定のための組織がありトロツキーもここに所属していたのですが、ブハーリンら政治局内の主流派と対立し、政治局員を解任されます。
その後の政争にも破れ、1927年には政府や共産党の全役職を解任され、1929年には国外追放されるに至ります。
亡命生活とメキシコでの暗殺
ソ連から追放されたトロツキーは国外でも活動を続けました。
トルコ、フランス、ノルウェーと国を移る中で、ソ連の現体制を批判する雑誌を発行したり、「ソ連とは何か、そしてソ連はどこに行ったのか」という批判書を著したりもしています。
この批判書の中で、現在のソビエト連邦は革命初期にはあったはずの民主主義が欠落しているとの主張がなされました。
当時の指導者スターリンのもとで工業化が進んでいたソ連ですが、その一方でスターリンに対する個人崇拝を強制し、政策に反対する者には秘密警察を差し向ける、あるいは粛清するなどといった恐怖政治を行ったため、トロツキーはその体制をスターリニズムと呼んで批判しました。
一方のスターリンも政敵に「トロツキスト」とレッテルを貼って排除しようとしました。
スターリンとトロツキーは互いに最大の敵と言って過言ではない状況に置かれていたのです。
スターリンは国外にいたトロツキー本人にまで魔手を伸ばしました。
メキシコに移住したのちに息子がソ連に暗殺されたことで警戒を強めたトロツキーですが、1940年8月、ソ連のスパイの手によってピッケルで頭を砕かれ死亡しました。
さぞや痛かったでしょうね。
世界革命論と一国社会主義論
トロツキーとスターリンは互いに最大の敵であったと書きましたが、両者の思想にも明確な違いがありました。
トロツキーは世界革命論を唱えた一方、スターリンは一国社会主義論を主張し、イデオロギー面でも対立していたのです。
世界革命論は、革命をロシアという国単位でとらえるのではなく、西ヨーロッパやアメリカなど世界で同時に起こるものであり、それらの国々も含めて社会主義体制が完成するまでは革命を継続すべきであるとする理論です。
実際に第一次世界大戦末期にはドイツで社会主義革命が発生し、各地でレーテ(ソビエトをドイツ語に訳したもの)が結成されましたが、ドイツ帝国に代わって成立したヴァイマル共和国軍によって鎮圧され、革命は失敗しています。
少数ながら共産主義政権が成立した国もありましたが、到底世界革命とは言えない様相でした。
これに対して「ソ連1国だけで社会主義は達成できる」としたのが一国社会主義論です。
社会主義の路線をめぐって2人は対立しましたが、スターリンが政争に勝利したことで各国の共産党(日本共産党、フランス共産党など)でも主要な考え方となりました。
ただその後も世界革命論を唱えた者がいなかったというわけではなく、1960年代以降のいわゆる新左翼には世界革命論の提唱者もいました。
まとめ
- トロツキーは本名ではなく、本当の名前は別にある
- 革命活動に参加するも少数派に属し、多数派と対立する
- ロシア革命においてソビエトへの権力移行に貢献
- 政争に敗れて失脚し、ソ連を追放される
- ソ連の体制を批判するが、メキシコで暗殺された
- トロツキーは世界革命論を、スターリンは一国社会主義論を唱えた
最後は暗殺されたトロツキーですが残した思想の影響は深く、今ではソ連の政治家たちの中でも最も有名な部類として知られています。
彼の唱えた世界革命論がもしも実現していたら、世界は今と異なる様相をとっていたでしょう。
私は共産主義が嫌いで現在の民主主義体制を支持しているのでそういう世界は見たくないのですが、こういった思想に関しては知っておいて損はしないなと思います。
この記事はここまでとなります。読んでいただきありがとうございました。